『ザ・ビートルズ 解散の真実』
[著]ピーター・ドゲット
[訳]奥田祐士
[発行]イースト・プレス
日夜、サヴィル・ロウ三番地にあるアップル本社の入口階段で張り番をしていた娘たち──ジョージ・ハリスンは彼女たちを「アップル・スクラッフス」と名づけ、同題の曲で讃えた──は、一九六三年の時点ですでに、彼らに恋心を抱ける年齢だった。だが一二歳のころならいざしらず、今ではもうメンバーの姿を見かけても、叫び声を上げるようなことはなかった。彼女たちのトレードマークは、クールな物腰だった。かつてのスクラッフズのように、スターに夢中な十代の娘じみた真似をするのは、新参者だけだったのである。
スクラッフスの妹たちはビートルズを生活の一部として受け入れていたが、髭を生やし、むっつりした表情を浮かべたかつてのファブ・フォーはもう、思春期の少女の恋愛対象とはなりえなかった。一九六九年の思春期前の少女には、もっとすっきりした顔立ちのアイドルたちがいた──たとえばモンキーズのデイヴィー・ジョーンズ、エーメン・コーナーのアンディ・フェアウェザー=ロウ、ボビー・シャーマン、あるいはオリヴァーのような。その夏のラジオは、ビートルズの登場前から業界にいるプロデューサーたちがでっち上げた架空のグループ、アーチーズの大甘な〈シュガー・シュガー(Sugar Sugar)〉に占拠されていた。
一九六五年から一九六七年にかけて、ポップはサイケデリックなドラッグや東洋の精神主義、そしてT・S・エリオットからチャールズ・アイヴスまで、多岐にわたる「高尚な芸術」からの影響を用いて、自分たちの想像力の枠を広げようとするミュージシャンたちの遊び場になっていた。しかしポップはこの年のうちに、モンキーズによる確信犯的なビートルマニアの再生と、アルバム《サージェント・ペパーズ》のリリースとのはざまで、イデオロギー的に分断された、ふたつの流れに分かれてしまう。ひとつは伝統的な市場、すなわち八歳から一五歳までの子どもを狙う流れ、そしてもうひとつはシリアスで進歩的な音楽、だがどこかに反逆をにおわせた音楽を好む早熟なティーン、学生、ヤングアダルトをターゲットにした流れである。
ビートルズは依然として、西洋世界では抜群の人気を誇るミュージシャンだった。非合法のダビングや国境を越えるラジオを通じて、彼らは鉄のカーテンの向こう側にも浸透していた。だが彼らの訴求力は今や、ポップとロックの聴衆のあいだで、不安定なバランスを取っていた。
〈ハロー・グッドバイ〉や〈ゲット・バック〉のようなマッカートニー作品は、ポップ好きな子どもたちも惹きつけるナイーヴな魅力を保持していたものの、『ホワイト・アルバム』に収められていた暗鬱な曲に感情移入できる思春期前のファンはほとんどいなかった。〈ハード・デイズ・ナイト(A Hard Day's Night)〉に合わせて足を鳴らした彼らの両親や祖父母たちも、現在のビートルズのライフスタイルを象徴するもろもろ──ドラッグ、警察の手入れ、瞑想、全裸写真──にはついていけないものを感じていた。なにしろつねに人好きのする存在だったポール・マッカートニーまでが、イギリス人のガールフレンドを捨てて、アメリカ人と結婚してしまったのである。
そのヒーローたちが文学や芸術の徒に負けず劣らず真剣に受け取られていたロック文化の枠内でも、ビートルズは曖昧な地位を占めていた。依然として伝説的存在ではあったものの、もはやひとつの世代を率いたり、その好みを作り出したりすることはなくなっていた。大半のロック・ファンの記憶にある限り、ずっと有名人だったレノン、マッカートニー、ハリスン、スターキーと、たとえばウッドストックのような大規模野外フェスティヴァルに群れ集まる巡礼者たちのあいだには、ほとんど共通点が見いだせなかった。
ビートルズは自分たちと聴衆のあいだに橋を架けるつもりで、アップルを設立していたが、理想主義的な企業たらんとするこころみが失敗に終わると──クラインの登場前から、それはすでに明らかだった──亀裂はかえって広がっていた。ヒーローとの一体感を求めるロック・ファンは、別のところに目を向けた。厚かましいまでに傷つきやすいジャニス・ジョプリン、謎めいた存在感を放つボブ・ディラン、赤裸々にみずからを語るクロスビー・スティルス&ナッシュ、そして今やカウンターカルチャー全体に行きわたっていた反逆的な流れの、もっとも鋭敏なガイド役と目されていたローリング・ストーンズに。