『ザ・ビートルズ 解散の真実』
[著]ピーター・ドゲット
[訳]奥田祐士
[発行]イースト・プレス
一九七一年の訴訟では、判事がクラインの行動に手厳しい評価を下していたが、にもかかわらずレノン、ハリスン、スターキーは、自分たちのマネージャーに信を置きつづけた。「彼のおかげであの三人は、経済的にもアーティスト的にも安定することができた」とステックラーは考えている。だとしたら彼らはなぜ、クラインとの訣別を決めたのだろう?
ステックラーに言わせると、彼にはその答えがわかっていた。「ジョージから電話があって、『クラインとは再契約しない』と言われたんだ」と彼はふり返っている。「理由を訊くと、『ビートルズがまた一緒になれる唯一の条件は、アレンがその場にいないことなんだ』という答えが返ってきた。『ぼくはもうその気だし、リンゴもそうだ。ジョンも、ぼくらと同調するように説得できると思う。でもとにかくぼくらがポールと仕事をするつもりなら、クラインをお払い箱にするしかないんだよ』」
確かにマッカートニーはクラインの離脱によって、コミュニケーションの扉が大きく開かれたと感じていた。「ぼくらがまた一緒にやれなかった唯一の理由は、契約上、ビートルズの名前をアレン・クラインが押さえていたことなんだ」と彼は、クラインの登場前からはじまっていた性格の不一致を棚に上げてコメントしている。
四人のビートルのうち、三人には今や、再結成を考慮する用意があった。だが四人目のメンバーがすぐさま、彼らの熱意に水を差した。「可能性は実質的に皆無だ」とレノンは断言した。「それにかりに連中が組んだとしたら」──彼の選んだ人称代名詞は、多くを物語っていた──「いったいどれだけあら探しされることになると思う? どんな真似をしたところで、世間が夢見る連中のイメージに、ぴったりハマるわけがないんだ。だからそんな話は忘れてくれ。バカげてる!」
だがレノンを怖じ気づかせた夢は、大きな利益を生み出す力を秘めていた。一九七三年のはじめごろ、「ペントハウス」のようなアメリカの全国誌や、ABCネットワーク系列のラジオ局、TV局などに、《ザ・ストーリー・オブ・ザ・ビートルズ(The Story of the Beatles)》の広告が打たれはじめた。ビートルズの六〇年代のカタログから選ばれた豊富な曲目に、彼らのソロ・シングルも何曲か追加したアルバムのセットである。しかしこれは正式に認められた過去のリプレイではなく、完全に闇市場の産物だったため、アレン・クラインがすぐさま販売を差し止めた。
ジョージ・ハリスンとアップル、およびキャピトル・レコードは、ビートルズの音楽を「違法に略奪した」として、レコードの配給業者たちを共同で訴えた。アップルのマネージャーとして、クラインが最後にやった仕事のひとつが、グループの公式なヒット曲集、《1962~1966(1962─1966)》と《1967~1970(1967─1970)》の発売を認可することだった。
このふたつのアルバムはそろいのジャケットに収められ、《1962~1966》にはファースト・アルバム用に撮影された写真の別カット、そして《1967~1970》には、一九六九年にそれを模して、本来はアルバム《ゲット・バック》用に撮影された写真が使用された。大衆は貪欲にビートルズのサウンドを求め、じきに二組のアルバムは、世界中でチャートの首位獲得を競いはじめた。
クラインはもともとこれらのアルバムを、ニール・アスピノールが制作していたビートルズのドキュメンタリー映画に合わせて発売したいと考え、四人のメンバー全員に、曲目について相談していた。しかしマッカートニーは協力を拒み、レノンもほとんど助けにならなかった。「あのアルバムの選曲は、ジョージが中心になってやった」と彼も認めている。「リストが送られてきて、意見を求められたんだけど、その時は忙しくてね」
マッカートニーはそれ以上に関心が薄く、「まだ聞いてないんだ」とリリースの数か月後に語っている。アップルになり代わってアルバムを販売するEMI/キャピトルは、できるだけ早く店頭に並べたがっていたが、クラインの契約が失効し、彼に利益の一部を支払う義務がなくなる四月のはじめを待つために、発売は何度か、はっきりしない理由で延期された。