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自由民主党の深層
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政治・社会
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自民党を生んだ男──三木武吉怪伝

『自由民主党の深層』
[著]大下英治 [発行]イースト・プレス


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 鳩山一郎が総理になってからの初の総選挙である第二七回総選挙が、昭和三○年(一九五五年)二月二七日におこなわれた。


 鳩山を総裁とする日本民主党は、一八五議席を獲得し、比較第一党となった。()(がた)(たけ)(とら)を総裁とする自由党は、一一二議席、左派社会党は、八九議席、右派社会党は、六七議席、労農党四議席、共産党二議席、諸派無所属八議席であった。日本民主党と自由党の保守勢力の勝利であった。が、社会党は、左右両派だけで憲法改正を阻止するに足る議員定数三分の一の一五六名を獲得することができた。


 鳩山を支える日本民主党総務会長の三木武吉は、この結果を憂いた。(こう)()(いち)(ろう)らに、例の語尾にダをつける独特の口調でいった。

「これはダ、日本の政治史上における画期的な変化だ。ひとたびここまで成長した社会党の勢力はダ、よほどの失敗か異変のない限り、後退のあろうはずはない。三分の一はダ、やがて二○○となり、過半数となることはただ時間の問題ダ」


 三木の恐れたものが、二つあった。


 一つは、保守勢力の確執によって失わなくてもすむ議席を失い、そのため三木が悲願としている憲法改正の機会を永久に失う恐れである。


 いま一つは、社会党の発展にともなう容共(共産主義容認)勢力の進出である。


 社会党の進出は、昭和二四年の総選挙での惨敗を底として、年々確実に潮の満ちるように停滞することなく進んでいた。昭和二六年に講和条約などをめぐって左右両派に分裂したものの、この総選挙では、両派の力だけで衆議院の三分の一に達した。このうえ保守勢力が内紛をつづけては、いつ保革が逆転するやもわからない。


 憲法改正は占領政治修正を断行する出発点である、と三木も鳩山も信じている。


 残された命の短いことを自覚する三木は、あらためて思った。

〈保守結集を急がねば……〉


 左派社会党が、総評(日本労働組合総評議会)の組織により、共産党に流れていた得票を大部分獲得したことは明白である。総評の態度は、年ごとに容共化を強め、同時に左派社会党の援護部隊として党内に隠然たる勢力を広げている。昭和三〇年二月の総選挙が終わってみると、総評系の議員は両院を通じて七○名以上を数え、社会党が持つ議席数のほとんど三分の一に達する勢いである。


 優位に立った左派は、再統一を急いでいる。社会党統一が世論化していることは、左派を積極的にした。統一されれば新社会党が左派に領導され、やがて党をあげて総評のタクトにしたがい、左偏向を余儀なくされるであろう。すでに前年の昭和二九年一一月二○日には左右両派の政策協定がおこなわれ、昭和三○年一月一八日には、両派同時に大会を開き議会終了後、統一についての決議を採択している。


 三木武吉は、いかなる障害も踏み越えて保守結集による安定政権を急いだ。日本民主党や鳩山内閣の運命など、もとより問題ではなかった。


 昭和三○年四月一二日、三木は、東京から郷里・高松に向かう途中、大阪で新聞記者団と会見し、突然、爆弾談話を発表した。

「保守結集のためにダ、もし鳩山の存在が障害になるなら、鳩山内閣は総辞職してもいい。民主党は解体しても、いっこうにさしつかえない」


 したたかな三木は、宣伝効果を狙い、あえて旅行中の談話を演出したのである。


 保守勢力の大結集は、敗戦直後、鳩山を助けて自由党結党に乗り出したときから三木の悲願であった。いや、生き甲斐でさえあった。三木にとっては、日本民主党の結党はその悲願の一里塚にすぎない。


 三木提案は、日本民主党内に大波乱を巻き起こした。日本民主党幹事長の岸信介や()(もと)(りゆう)()(ろう)も、「まったくそのとおりだ」と諸手をあげて拍手した。


 日本民主党の河野一郎と自由党総裁の緒方竹虎のあいだの連絡は、(しの)()(こう)(さく)がつとめていた。その篠田が、河野に話を持ちかけた。

「緒方さんは合同の話に大いに乗り気だが、総裁自ら口火を切るわけにはいかない。三木と(おお)()(ばん)(ぼく)が会う工夫をしてはどうか」


 が、なにしろ大野は、三木とは三○年にわたっての政敵である。そのうえ、過去二回の選挙では大野の選挙区岐阜へ三木があらわれて、わざわざ、大野の演説している鼻先で手ひどい大野攻撃を繰り広げていた。三木は、大野がかつて鳩山にかわいがられていながら、吉田茂と手を組んで鳩山を裏切ったと決めつけ、ののしった。

「大野君はダ、『大義に私を滅する』といって、鳩山君を捨てて吉田君についた。そして、大臣になって、議長にもなった。あのときの大野君の『大義』の大は『大臣』の大で、ギは『議長』の議ダ」


 大野の三木を憎む心は火のように熱く、手がつけられない。


 五月一五日午前一〇時、三木自ら大野に電話をかけてきた。大野は、無愛想に用事を訊いた。


 三木は、あくまで下手から懇請する調子で申し出た。

「国家のためダ、きみとぼくでなければできない話を、二人きりでやりたい。ぜひ会ってくれ」


 大野は思った。

〈どうせまた、手のこんだ策略にちがいない〉


 大野は答えた。

「とにかく、会おう」


 時間はその日の夕方六時、場所は港区高輪の大野の自宅のすぐ近所にある、のちのアラビア石油社長・(やま)(した)()(ろう)邸の座敷が借りてあるという早手回しである。


 自由党の総務会長の自分と、民主党の総務会長である三木、二人が秘密で会ったことが後に知れてはまずいと、大野は、この件を緒方自由党総裁に報告して了解を求めた。


 緒方は乗り気であった。

「三木が本気でやると見極めたら、大いに推進してくれ」


 大野は警戒しながら会見にのぞんだ。

〈相手が相手だ。妖気に惑わされまい〉


 大野は、山下邸で三木の顔を見るなり、喧嘩腰でいった。

「いまごろ、何の用があって、わしに会いたいのだ」


 大野は、三木の話を聞かないうちから、毒気を吐きかけた。

「三木君、さんざん自由党を苛めて政権を取ったが、選挙で絶対多数が取れず、国会では逆に痛めつけられる。とても政権維持の見通しがつかない。そのため、今度はわしを騙して自由党を切り崩し、鳩山内閣を強化しようというのだろう。うまく仕組んだね」


 こういう喧嘩腰の相手を説得するのは三木のお家芸である。おまけに大野は無類の正直者で鳩山とは政界の誰よりも古くて深い間柄、政治的には親子も同様の間柄である。


 三木は、舌に油をかけて口説いた。

「鳩山内閣のためなどというケチな話ではない。国を救う大義のためだ。保守が合同し、安定政権による強力政策のほかに敗戦した日本をダ、建て直す道はない。その妨げとなるならダ、鳩山内閣など、明日潰してもいっこうに惜しくはない」


 三木の話は最初から突飛なので、大野の疑惑はますます深まった。


 が、三木はかまわずつづけた。

「きみに誓うよ。きみがこの話に賛成してくれたらダ、誓って噓や駆け引きはやらない。吉田を倒すために、(あま)(じや)()となって策謀も噓も根限りやった。それはダ、吉田が自分一身のためこの保守結束を妨げ、政治の公道を乱したからだ。いまのぼくは余命いくばくもない老残の身、神仏に通ずる誠心誠意ダ。日本の将来のため、全保守勢力をまとめ一大政治力を創り上げ、安定した政策を推進したい一念あるのみダ。今日、自由党人多しといえども、この大事を共にやれる人はダ、きみのほかいない。きみはたぶん、ぼくを恨み憎んでいるに相違ない。きみの選挙区ではダ、二度もきみの悪口をいってきみを落選させようとしたが、きみはそのたびに得票を増やして当選してきた。憎むのが当たり前ダ。だが、いまはそんなことで遠慮している時期ではないから、こうして膝を交えて赤心を()(れき)するのダ」


 三木は、まるで手をつかんばかりの態度で説く。

〈この狸めが……〉


 大野は、はじめは警戒し、憎々しくも思った。が、三木のあまりの熱心さに、つい引き込まれた。しまいには、つい口にしていた。

「そんなことは、政治家の常で気にするには及ばん」


 それから一歩突っ込んだ具体的な話に入った。三木は語った。

「鳩山を初代として合同のうえはダ、できるだけ早く、少なくとも来年の花の咲く頃までには、緒方にリレーすることが最良の方法だ」


 そして、最後にいった。

「おれはこれだけを仕遂げてから、あの世に旅立ちたい」


 会談は、三時間にもおよんだ。大野は、とうとう三木に同意した。


 大野は、会談後、緒方に会い、三木との会見の模様を語った。

「騙されまいとの用心は吹っ飛んで、あの爺さんの誠意に打たれたのだ」


 一〇月一三日には、左右両派社会党が、ついに統一した。これは保守系の自由、民主両党の議員に、相当な影響を与えた。理屈や感情を超え、「これではたまらない」と危機感を抱いた。両党内の合同反対論は、しだいに勢力を弱めていった。


 保守合同に先立ち、自由党の(いし)()(みつ)()(ろう)と民主党の岸信介で、新党の党名について話し合った。石井は、「自由党」の名前にこだわった。なにしろ、鳩山一郎が自分でこしらえた党名である。岸は、意外なほどあっさりと認めた。

「当面は、自由党でいいよ」


 石井はびっくりした。数でいうと衆議院では岸の民主党が一八五人で、自由党は一一二人だから、岸のほうの発言力が強くて当然だ。石井は、遠慮気味にいった。

「きみのほうが多いんだから『民主自由党』でいいよ」


 ところが、岸はいった。

「『自由』を、先にしたほうが語呂がいいから『自由民主党』でいこう」


 岸は、党内には実体ができたのだから名前にはあまりこだわるな、といっていた。なにより「自由」という言葉は、いい言葉だ。実際には、どちらを上につけるかは党内でだいぶ議論があったが、最後は、この場で「自由民主党」と決めた。


 昭和三〇年一一月一五日、東京神田の中央大学講堂で自由民主党結党大会がひらかれた。両党はついに保守大合同を実現。所属代議士二九九名、参議院議員一一八名、戦後最大の保守政党である「自由民主党」が誕生した。


 三木としては、敗戦直後、鳩山を助けて自由党の旗を揚げて以来一〇年目にして、ようやくその悲願を遂げたわけである。政界は、保守・革新の二大政党対立時代を迎えることになった。


 こうして、昭和三○年(一九五五年)にスタートし、平成五年の(ほそ)(かわ)(もり)(ひろ)政権誕生までつづく、いわゆる「五五年体制」がはじまったのである。

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