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自由民主党の深層
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政治・社会
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「安保」から「所得倍増」時代へ

『自由民主党の深層』
[著]大下英治 [発行]イースト・プレス


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 総理になった池田勇人は、明治三二年一二月三日、広島県竹原市に生まれた。熊本の第五高等学校(五高)、京都帝国大学法学部をへて、大正一四年、大蔵省(現・財務省)に入省。大蔵省時代から大ざっぱで大酒飲みであった。昭和二二年二月、第一次吉田内閣で、石橋湛山大蔵大臣の事務次官に就任。昭和二四年の選挙に初出馬して当選。その年二月、第三次吉田内閣が発足し、池田は、なんと当選一回生にして、いきなり大蔵大臣に抜擢された。これは外交官出身の吉田茂が党人派を嫌い、官僚出身者を寵愛し積極登用する人事を敷いた象徴である。


 池田は戦後インフレの鎮静をめざしたドッジ・ラインによる昭和二四年度超均衡予算を手がけた。シャウプ勧告に基づく税制改革など、占領下の経済政策を次々に実行していった。だが、ドッジ・ラインのもたらした不景気のなかで、昭和二五年三月、「中小企業の一部倒産もやむをえない」と発言。国会で問題化し、野党から不信任案を出され、否決された。


 池田は、それにも懲りず、その年一二月、「貧乏人は麦を食え」と放言。さらに、通産大臣だった昭和二七年一一月二七日に、国会答弁中にまた失言してしまった。

「中小企業の倒産、自殺もやむをえない」


 何事も本音でいわないと気がすまない性格のなせることであったが、そのぶっきらぼうさは、庶民を見下す高姿勢ととられ、凄まじい反発を食らった。衆議院本会議で、戦後初の閣僚不信任案可決を受けて、ついに辞任せざるをえなくなった。


 しかし、ワンマン総理の吉田は池田を寵愛し、対米折衝に何度も使った。昭和二八年には、日本の防衛力増強を討議するMSA(相互安全保障法)交渉のため、特使としてワシントンに派遣。


 昭和三二年、石橋内閣でも再び大蔵大臣となる。石橋とともに、前鳩山内閣の緊縮財政を一転、積極財政を打ち出し、戦後の経済政策の転換点をつくった。


 つづく岸内閣では、国務大臣に就任。が、昭和三三年暮れの警職法(警察官職務執行法)紛糾に対する岸の責任を追及。三木武夫、灘尾弘吉らと、閣僚を辞任した。岸の強引にすすめた警職法の改正は、警察官の権限を強大にするため、憲法に定める基本的人権である言論・集会・思想・表現の自由などが根本的に侵害される心配があると判断しての批判であった。


 池田側近の(みや)(ざわ)()(いち)は、自民党保守本流の宏池会率いる派閥の領袖であった池田の閣僚辞任の深層をこう読んでいた。

〈池田さんは、岸さんのあとは佐藤さんになるんじゃないかということがいつも意識にあって、それに対して自分のアイデンティティー(独自性)をつくらなきゃいかんなあ、という気持ちがあったのではないか〉


 警職法改正案は、ついに廃案となった。


 ところが、いったん反主流にまわったはずの池田は、昭和三四年の内閣改造で、通産大臣に返り咲いた。正直なところ、池田は、岸とウマの合うほうではなかった。そこで、宮澤ら側近は、そのとき池田を突き上げた。

「なぜ、通産大臣ぐらいで岸さんに尻尾を振っていくのか」


 みなが息巻いた。

「モーニングなど、組閣本部へ届けるな」


 さて、池田の性格であるが、宮澤が見るところ、池田には、独特の愛嬌があった。大蔵省時代は出世コースをはずれた自称“赤切符組”である。赤切符とは、三等乗車券の俗称である。そのうえ池田は落葉状(てん)(ぽう)(そう)という大病を経験している。

「自分は頭が悪いから、頼むよ」


 これが、池田の口癖であった。京都帝大法学部出身で、官僚時代には最終的に大蔵次官まで務めた池田が頭脳的に劣る理由などないのだが、逆に、いわれたほうは一生懸命に助ける。仕事がうまくいくと「やったな!」とうれしそうな顔をするという具合なので、宮澤たち側近にもやりがいを覚えさせる。そんな人徳があった。


 池田は、緒方竹虎、岸信介とはソリが合わなかったが、他方では党人派の大野伴睦のような年長者に気に入られるようなところもあった。相撲でいえば、下位の力士には取りこぼすが、上位とはなかなかいい相撲を取るといった人物であったという。


 池田が総裁の座を勝ち取った昭和三五年七月一四日夜、池田邸で側近の大平正芳と宮澤喜一たちは、新内閣のキャッチフレーズをどうしようかと相談した。


 大平がいった。

「安保で荒れた世相を考えると、やはり大事なのは辛抱だな」


 が、語呂が悪いから「忍耐」という高尚な言葉になった。


 それにもう一つ何か加えようと考えているとき、宮澤が「寛容」という言葉を思いついた。宮澤は学生の頃、イギリスの経済学者J・S・ミルの本を熱心に読んだことがある。ミルの『自由論』のなかには「トレランス(寛容)」が何度も使われていた。それを思い出したのである。

「寛容と忍耐」をかかげた池田低姿勢内閣は、こうして誕生したのであった。


 池田内閣のもう一つの柱は、戦後経済再生政策の「所得倍増計画」であった。


 池田総理は、昭和三五年九月五日、「一〇年間に国民所得を二倍に引き上げる」という所得倍増計画を発表した。

「政治とは国民生活を引き上げ、社会保障を充実することである。一〇年間に、一人当たりの国民所得を倍にするには、一年に七・二パーセントの経済成長が必要だという計算になるが、わたしは、所得倍増を一○年以内にやるといっているのだ。過去五年間を見ても、成長率は九パーセントを超えている。これから見て、今後九パーセントと見積ってなぜ悪いか。そうすることが本当だろう。過去の政府は、低目に成長率を立てていたが、税の自然増収が一○○○億円も出るのは予算ではない。自信をもってやるのが政治家の任務だ」


 安保で血まで流して険しい対立を生んだ社会を、経済的繁栄で安定に向かわせる。そのような意図と同時に、これまで自分の積極財政策を否定してきた岸政治への痛烈な怒りが読みとれる。


 この「所得倍増計画」は、池田が、宏池会の初代事務局長の()(むら)(とし)()と話しているなかで生まれた。二人が話し合っているうち、「月給を一○年間で二倍にしよう」と勢いづいた。その「月給二倍論」に、池田の大蔵省の後輩であった(しも)(むら)(おさむ)が理論的基礎を与えた。


 所得倍増計画は、政府が経済政策を政治課題として正面切ってとり上げたという点で、じつに画期的なものであった。「安保主義」から「経済主義」に政治の重点が切り換えられ、日本は高度経済成長への道を歩み出したのである。


 実際の経済は、予定より早く成長し、「所得倍増計画」で定めた軌道から大きくはずれ、一○年を待たずして国民所得倍増が実現することになる。


 昭和三五年一○月二四日、池田は、衆議院を解散した。


 このとき、自民党は、テレビCMで売り込んだ。

「わたしは、噓は申しません」

「経済のことは、池田にお任せください」


 このフレーズは、流行語になった。


 一一月二○日の投開票の結果、自民党の獲得議席は、昭和七年の政友会・(いぬ)(かい)(つよし)内閣の三○一議席に次ぐ二九六議席と憲政史上第二位であった。選挙後、無所属の四名が入党し、三○○議席となった。

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