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自由民主党の深層
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政治・社会
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ポスト佐藤──田中角栄 vs 福田赳夫

『自由民主党の深層』
[著]大下英治 [発行]イースト・プレス


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 さかのぼること昭和四五年一月四日、佐藤栄作総理は、新春恒例の伊勢神宮参拝に出かけた。前年一一月、沖縄返還に向けたニクソン大統領との日米首脳会談を成功裡に終え、一二月末の第三二回総選挙も大過なく越えたいま、自民党内では佐藤の進退問題がクローズアップされてきた。


 三期目に入っていた総裁任期は、この年の一〇月で切れる。佐藤総理は、記者たちに後継者問題を訊かれ、答えた。

「総裁としての素質の問題もあるが、みずから総裁となるための努力も必要だ。しかし、それだけではなく、わたし自身も手を貸して後継者づくりをしなければならない。いずれにしても、これはじっくり構えて考えていく問題だ。いま自民党には多士済々で、後継者は五指にあまると言いたいが……、わたしの頭のなかにあるのは、三人というとこだ。吉田茂さんは八人くらいつくっておけといっていたが」


 佐藤総理は三人といったが、本心は、福田赳夫と田中角栄の二人に絞られていた。角福戦争は、すでに前哨戦がはじまっていた。


 田中の生涯のライバルである福田赳夫は、明治三八年一月一四日、群馬県群馬町の生まれで、この年六五歳である。旧制一高、東京帝大法学部から大蔵省に入り、銀行局長、主計局長など省内主流コースを歩んだ。が、政界入りは田中より遅く、昭和二七年無所属で代議士に当選。いったんは自由党に入ったが、吉田主流派に反発して、二九年岸信介の新党運動に参加、日本民主党に加わった。


 保守合同後は岸派の幹部として、三四年一月には自民党幹事長に起用され、「軽量」といわれながらも大役をソツなくこなした。三四年六月には農林大臣に就任。池田勇人内閣でも当初は党政務調査会長をつとめ協力していた。が、やがて高度経済成長政策を批判して離れ、党風刷新連盟をつくり、「自民党の近代的統一」「派閥解消」を要求するなど盾ついた。


 佐藤政権の誕生には大きく貢献し、大蔵大臣、幹事長と厚遇され、佐藤のあとを継ぐ「自民党のプリンス」と見られていた。特に岸元総理は福田をかわいがり、「佐藤のあとは福田」と後押しをしていた。


 一方の田中角栄は、大正七年五月四日、牛馬商の次男として新潟県(かり)()(ぐん)(ふた)()(むら)に生まれ、この年五二歳である。昭和八年に、尋常高等小学校を卒業後、上京。建設会社に住み込みで働くかたわら、夜は私立中央工学校土木科に学んだ。


 昭和一八年、田中土建工業株式会社を設立して社長となり、年間施工実績で全国五○位内の会社に育て上げた。二一年四月、戦後初の総選挙に出馬するも次点で落選。翌年四月、新潟三区より立候補して初当選。三二年七月、三九歳にして第一次岸改造内閣の郵政大臣に就任した。池田内閣時代の三八年七月から大蔵大臣を三期にわたってつとめ、佐藤内閣成立時の貢献により四○年六月には党幹事長に就任。佐藤内閣の長期政権は福田、田中が両輪となって支えていた。


 田中は、闘志にあふれていた。

〈いよいよ、総裁の椅子が、目の前に迫ったぞ〉


 田中角栄が幹事長として陣頭指揮をとった前年の第三二回衆議院選では、のちに「花の昭和四四年組」と呼ばれる新人議員が初当選を果たした。自民党では、のちに田中を支える(かじ)(やま)(せい)(ろく)()(ざわ)(いち)(ろう)()()(つとむ)(おく)()(けい)()(わた)(なべ)(こう)(ぞう)、福田派の(もり)(よし)(ろう)、社会党でも()()たか子が当選している。

「田中派の初年兵」を自任する昭和四四年当選組は、田中を「オヤジ」と呼んで、しばしば千代田区平河町の()(ぼう)会館三階にある田中の個人事務所に出入りした。

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