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アレックス・ファーガソン自伝
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第1章 回想

『アレックス・ファーガソン自伝』
[著]アレックス・ファーガソン [訳]小林玲子 [発行]日本文芸社


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 これぞマンチェスター・ユナイテッドという試合を挙げるなら、私は監督としての千五百試合目──最終試合を挙げるだろう。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン対マンチェスター・ユナイテッド、5対5。クレイジー。最高。エンタメ性抜群。規格外。


 マンチェスター・ユナイテッドの試合の観戦に行けば、待っているのはゴールとドラマだ。サポーターは心臓の強さが試される。5対2でウェスト・ブロムウィッチに勝っていたはずが、五分弱で振り出しに戻ってしまっても、私は文句を言う気になれなかった。一応、腹を立てているという身ぶりをしたが、選手にはあっさり見抜かれていた。私は言った。「ありがとう、皆。とんでもない別れの(あい)(さつ)をしてくれたな!」


 後任は既にデイヴィッド・モイーズに決定していた。試合後、ドレッシングルームで一息ついていると、ライアン・ギグスが私をからかった。「たった今、デイヴィッド・モイーズが辞任しましたよ。あなたの引退は取り消しだ」


 この日のユナイテッドは守備が(もろ)かったが、私は優秀な選手とスタッフをデイヴィッド・モイーズに引き渡せることを誇りに思っていたし、(あん)()の気持ちもあった。私の仕事は終わった。家族はスタジアムの特別席で観戦していて、目の前には新しい人生が広がっていた。



 夢の中にいるような一日があるとしたら、まさにこの日がそうだった。ウェスト・ブロムウィッチは正真正銘の紳士で、私を存分にもてなしてくれた。後日、両チームの選手のサインが入ったメンバー表まで送られてきたほどだ。家族のほとんど──三人の息子、八人の孫、数人の親しい友人──が私と一日を共にした。皆が一緒にいてくれたのは幸せなことで、最後のときを分かち合えたのは本当に(うれ)しかった。私は一人で引退したのではなかった。


 ウェスト・ブロムウィッチのスタジアムに到着したチームバスを降りながら、私は一瞬一瞬を心に刻もうと思っていた。()めるなら今だとわかっていたので、監督業に未練はなかった。前日の夜、引退を記念して贈呈式を行うと選手から申し出があった。最もスペシャルな記念品は、私が生まれた1941年製の美しいロレックスで、針は午後3時3分を指していた。1941年1231日のグラスゴーで、私が産声を上げた瞬間だ。私のユナイテッドでの年月を一冊にまとめたアルバムも用意されていて、中央の見開きページには孫と家族の写真が載っていた。ロレックスの贈呈を企画したのは、腕時計を愛してやまないリオ・ファーディナンドだった。


 アルバムと腕時計が私の手に渡って部屋が拍手に包まれたあと、一部の選手は複雑な表情をしていた。ずっと私と過ごしてきたので、この瞬間をどう受け止めたらいいのかわからなかったのだろう。二十年を共にした選手もいる。うつろな顔はこう言っているようだった──この先、どうなるんだろう? 私以外の監督を知らない選手もいた。


 残り一試合をおろそかにするつもりはなかった。三十分間で3対0にしたが、それでもウェスト・ブロムウィッチは私を楽に引退させてくれなかった。私が指揮を執り始めたユナイテッドで最初のゴールを決めたのはヨン・シヴェベークで、1986年1122日のことだった。最後のゴールを記録したのはハビエル・エルナンデス、2013年5月19日。5対2の時点では、ユナイテッドが20対2で試合を終えてもおかしくなかった。同点にされてからは5対20で負けるかもしれなかった。守備は穴だらけだった。ウェスト・ブロムウィッチは五分間で3点を決めて、ロメル・ルカクはハットトリックを達成した。


 試合終盤、()(とう)のようにゴールを攻め立てられたが、それでもチームの空気は明るかった。終了の笛が鳴ったあと、私は選手たちとピッチに残って、ユナイテッドのサポーターが集まった一角に手を振った。ギグスが私を前に押し出し、選手たちはその場に留まった。私は一人で、ずらりと並んだ笑顔と向かい合った。歌とチャントが止むことはなく、サポーターはいつまでも飛び跳ねていた。もちろん5対2で勝ちたかったが、ある意味では5対5も別れにふさわしかった。こんなスコアでの引き分けはプレミアリーグ史上初で、私の監督人生でも初めてだった。最後の九十分間で、ささやかな歴史がもう一つ刻まれたというわけだ。


 マンチェスターの私のオフィスには、山のような郵便物が届いた。レアル・マドリードは素晴らしい記念品をくれた。マドリードにあるシベーレス広場の、噴水の中央にある女神像の銀製レプリカだ。彼らはリーグで優勝すると、その広場に集まって祝う。レアル・マドリードのフロレンティーノ・ペレス会長の丁重な手紙も添えられていた。アヤックスの会長とエドウィン・ファン・デル・サールからも、それぞれ贈りものが届いた。個人秘書のリンは、どっさり積まれた手紙の返事に追われていた。


 前の週末、ホームでスウォンジー・シティと対戦したときは──私のオールド・トラッフォードでの最終戦だ──選手が花道を作ってくれるのは予想できても、それ以上のことはわからなかった。その一週間はずっと家族や友人、選手、スタッフに、人生の次の段階に進むことにしたと告げるので大忙しだった。



 引退という考えが心に芽生えたのは2012年の後半だ。クリスマスの頃には、はっきりと気持ちが決まっていた──「監督を引退しよう」。

「どういうつもりなの?」と、妻のキャシーには()かれた。

「昨シーズン、最終節でリーグ優勝を逃しただろう。もう、あんなことには耐えられないんだ」と、私は言った。「今シーズンは必ず優勝して、チャンピオンズリーグかFAカップの決勝にも進出したい。有終の美を飾るのさ」


 10月に姉のブリジットを亡くして、まだ悲しみが()えていないキャシーだったが、すぐに賛成してくれた。私の年齢なら、サッカー以外のことに取り組む時間がまだ残っているというのだ。クラブとの契約では、夏に退任する場合は3月31日までに申告するよう義務づけられていた。


 偶然とはあるもので、2月の日曜に当時のユナイテッドCEOのデイヴィッド・ギルが電話をかけてきた。私の家で話がしたいという。なんだって日曜の午後に? 「CEOを()めるつもりなんだろう」と、私は言った。「それか、あなたクビになるのかもね」と、キャシー。果たしてギルは、今シーズンかぎりでCEOを退任すると言った。「たまげたな、デイヴィッド」。同じ決意をしている、と私は打ち明けた。


 数日後、ふたたびギルから電話があった。ユナイテッドのオーナーのグレイザー・ファミリーが、私と話をしたがっているという。私はジョエル・グレイザーからの電話に応えて、ギルという後ろ盾がなくなるから引退するわけではないと説明した。クリスマスの頃には心を決めていたのだ。決断の理由も明かした。キャシーの姉が10月に亡くなったことで、私たちの人生は一変した。キャシーを一人にしておくことはできなかった。グレイザーは私たちの気持ちを察してくれた。それでもニューヨークで顔を合わせたとき、私を引き留めようとしたので、あなたの尽力に感謝する、支えてくれてありがとうと私は言った。グレイザーは私の長年の功績を称えてくれた。


 私に翻意する気はまったくなかったので、話し合いは後任選びに移った。私とグレイザーの意見は一致していた──デイヴィッド・モイーズこそが適任だ。


 モイーズ本人もニューヨークにやって来て、就任の可能性について話し合った。グレイザー・ファミリーが絶対に避けたかったのは、私が引退を公表したあと、長い空白の期間ができることだった。数日以内には新監督を発表したかったのだ。


 スコットランド人の多くは「ドゥアネス」、すなわち強い意志を持っている。生まれ故郷を去るとしたら、理由はだいたい一つしかない。成功を収めるためだ。過去から逃れようとして土地を離れたりしない。離れるのはただ野心を実現するためだけだ。そんなスコットランド人が世界中、特にアメリカとカナダに多く住んでいる。異郷の地で暮らす人々は、ある種の覚悟を持っている。世間に対する仮面ではなく、ひとかどの人物になってみせるという固い決意だ。よく語られるスコットランド人のドゥアネスについては、私自身にも思い当たる節がある。


 スコットランド人は故郷を離れてもユーモアを忘れない。モイーズも同様だ。ただし仕事をする段になると、スコットランド人は並外れた勤勉さという長所を発揮する。私はよく言われた。「試合中、絶対に笑わないんですね」。私の答えはこうだ。「笑うのが仕事じゃなくて、試合に勝つのが仕事だからね」


 モイーズにもスコットランド人特有の気質がある。私は彼がどんな家庭で育ったのか知っている。私は十代の頃、グラスゴーのドラムチャペル・アマチュアズというクラブに所属していたが、モイーズの父親はそこのコーチの一人だった。父親の名前もデイヴィッド・モイーズという。仲のいい家族だ。それだけで監督に指名するというわけではないが、重要なポジションを任せるならば、落ち着いた環境で育った人間が望ましい。私がドラムチャペルを去った1957年にはモイーズの父親もまだ若かったので、深い付き合いがあったわけではない。とはいえ家庭の雰囲気はわかっていた。


 グレイザー・ファミリーもモイーズを気に入っていた。初対面で好感を持ったという。モイーズと顔を合わせてすぐに、率直な物言いをする男だと気づいたのだろう。自分を飾らないのはいいことだ。一つ断っておきたいが、私にはモイーズに指図する気などさらさらない。二十七年も監督を務めたというのに、これ以上サッカーに首を突っ込んでもしかたがないだろう。私にはそれまでの人生に別れを告げるときが来ていた。いちいち口を出さなくても、モイーズはユナイテッドの伝統をきちんと継いでくれるだろう。彼には才能を見抜く目があって、エヴァートン時代にも優秀な選手の補強が認められると、その機会を生かして素晴らしいサッカーをした。


 引退を後悔することはない、と私は自分に言い聞かせた。後悔する日など来ないはずだ。七十代に差しかかれば、肉体的にも精神的にもあっという間に下り坂を転がり落ちてしまうことがある。しかし私は引退したその日から、アメリカや他の国でプロジェクトに関わったので、めりはりのない生活に陥る危険はなかった。新しい挑戦が待っていたのだ。


 引退の発表前後に苦労したのは、ユナイテッドの練習場〈キャリントン〉のスタッフとどんな顔をして付き合うかということだった。人生を変える選択をしたことと、キャシーの姉の死について話すと、皆が心のこもった言葉をかけてくれた。そのときはさすがに自分を支えていたものが崩れて、思わず胸が熱くなった。


 公式発表の前日、(うわさ)が流れ始めた。その時点ではまだ弟のマーティンにも告げていなかった。うかつに動くことはできず、特にニューヨーク株式市場の反応を考えると、非常に対応が難しかった。情報が一部()れたせいで、何人かに打ち明けるつもりだったのを断念しなければいけなかった。



 5月8日水曜の朝、コーチングスタッフには全員ビデオ分析ルームに、事務スタッフには食堂に、選手にはドレッシングルームに集まってもらった。選手に告げるのと同時に、公式サイトで発表した。ドレッシングルームへの携帯電話の持ち込みは禁止した。私自身の口からキャリントンにいる全員に告げる前に、情報が伝わってしまうのを避けたかったのだ。どちらにしても、選手は噂のせいで重大発表があることをうすうす察していたようだ。


 私は選手に語りかけた。「不満に思っている者がいないといいのだが。君たちの何人かは、私が辞めたりしないと思って入団したかもしれないからな」。例えばそのシーズンに加入したロビン・ファン・ペルシーと()(がわ)(しん)()には、当分引退するつもりはないと話していた。あの時点では、それが真実だった。

「人生は移り変わるんだ」と、私は言った。「義理の姉が亡くなったのは、私にとって一大事だった。それに私は勝者として去りたい。今ならそうできる」


 何人かの選手はショックを隠せずにいた。「競馬場で羽根を伸ばしてこい」と、私は言った。「また木曜に会おう」。選手にはあらかじめ、チェスターの競馬場に行けるよう水曜の午後にオフを与えていた。外部の人間も知っていたことで、私の計画の一端だった。ファーガソンが監督人生に幕を下ろした日に競馬場に行くなんて冷淡だ、と選手が非難を受けてはたまらない。だから一週間も前に、この日は選手が外出すると公言しておいた。


 それから上の階に行って、コーチングスタッフに打ち明けた。彼らは拍手をしてくれた。「せいせいしますよ」と、何人かが軽口を叩いた。


 コーチングスタッフと比べると、選手のほうがより動揺していた。無理もないだろう。こうした状況では、たちまち疑問で頭がいっぱいになるはずだ──「新しい監督は自分を評価してくれるだろうか? 来シーズンもこのチームにいられるだろうか?」コーチにしてもこんなふうに考えるはずだが──「ここでの日々は終わりかもしれない」。私には矢継ぎ早の発表と説明を終えて、考えをまとめる時間が迫っていた。



 発表したらすぐさま帰宅することは、最初から決めていた。メディアが食いついてくるのはわかっていたからだ。キャリントンを一歩出たところで、報道陣とフラッシュの嵐に囲まれるのはごめんだった。


 私は自宅にこもった。弁護士のジェイソンと秘書のリンは、公式発表と同時にメールの送信を始めた。リンは十五分近くも送信を続けていたはずだ。世界中で三十八の新聞が私の引退を一面トップで報じたそうで、その中には高級紙として知られる『ニューヨーク・タイムズ』もあった。国内では10ページ近い特集号が出た。


 これだけ大きな特集が組まれたのは名誉なことだった。長年の間には新聞記事をめぐってジャーナリストと()めたこともあったが、私にわだかまりはなかった。ジャーナリストは大きな重圧にさらされている。テレビやインターネット、フェイスブック、ツイッターなどと競争しなければいけないし、編集者が絶えず目を光らせているのだ。厳しい世界だ。


 他にも引退報道からはっきりしたのは、たびたび衝突したにも拘わらず、ジャーナリストも私を(うら)んではいないということだった。彼らは私の功績を認めていたし、これまでの記者会見での発言も評価していた。送別会までしてくれたのだ。ヘアドライヤーをかたどった飾りが載ったケーキと、上質な赤ワインが用意されていた。気が()いているではないか(「ヘアドライヤー」はファーガソンのあだ名。相手に顔を近づけて激怒する様子が、熱風を吹き出すヘアドライヤーを思わせることから)


 オールド・トラッフォードでの最終戦では、スタジアムDJがフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」とナット・キング・コールの「アンフォゲッタブル」を流した。この日のユナイテッドの勝ち方は、私が指揮して白星を得た八百九十五試合の多くと共通していた。すなわち八十七分というぎりぎりの時間帯に、リオ・ファーディナンドが得点して勝ったのだ。



 ピッチ上での私の引退スピーチは、原稿の準備のない完全なアドリブだった。あらかじめ決めていたのは、個人を()めないということだけだった。肝心なのは役員でも、サポーターでも、選手でもなく、マンチェスター・ユナイテッドというクラブだ。


 新監督のモイーズを支持するよう、私は観客に訴えた。「思い出してほしい。私の在任中にも、苦しい時期はあった」と、マイクを通して呼びかけた。「クラブは私を支えてくれた。スタッフは全員、私を支えてくれた。選手も私を支えてくれた。だからこれからの皆さんの役目は、新しい監督の味方をすることだ。どうか忘れないでほしい」


 モイーズの名前を出さなかったら、いろいろと言われていただろう。「おかしいな。ファーガソンは本当にモイーズを後任にしたかったのか?」新監督には、無条件に受け入れられていると感じてもらわなくてはならない。ユナイテッドの義務は勝ち続けることだ。その思いが私たちを一つにしている。私はクラブの役員として、今の成功が長く続くことを心から願っている。ようやく私にも、純粋に試合を楽しむチャンスがめぐってきたのだ──ボビー・チャールトンは、引退してからずっとそんな日々を送っている。試合に勝ったあとで彼の顔を見ると、目をらんらんと輝かせて、両手をこすり合わせている。楽しくてしかたがないのだ。私もそんな気分を味わいたい。チャンピオンズリーグを観戦して、皆に言いたい──ユナイテッドを誇りに思う、素晴らしいクラブだ、と。


 スピーチを続けるうちに、私はポール・スコールズの名前を口にしていた。彼が嫌がるのはわかっていたが、言わずにはいられなかった。スコールズも引退のときを迎えていたのだ。ダレン・フレッチャーがクローン病を克服できるよう応援している、とも言ったが、その発言にはほとんど注目が集まらなかった。


 数日後、空港で一人のファンが封筒を手に近づいてきた。「郵便で送るつもりだったんです」。中身はアイルランドの新聞の記事で、ファーガソンはクラブを率いてきたのと同じやり方で引退した、と書いてあった。すなわち、何もかも自分の望みどおりに。実にファーガソンらしい、と記者は述べていた。読みごたえのある記事だった。私自身もユナイテッドで過ごした年月をそう捉えていたので、誰かが気づいてくれたのは嬉しかった。


 私が去るのと入れ替わりに、モイーズは三人のコーチングスタッフを連れてきた。スティーヴ・ラウンド、クリス・ウッズ、ジミー・ラムズデンだ。ライアン・ギグスとフィル・ネヴィルもコーチ陣に名を連ねた。それはつまり私が信頼していたレネ・メウレンステーン、ミック・フェラン、エリック・スティールの三人が仕事を失うことを意味していた。すべては新監督の判断だ。私はモイーズに、今までのコーチングスタッフを引き続き使ってくれたら嬉しいが、自分のスタッフを連れてくるのに口を出したり反対したりする気はない、と伝えていた。


 ジミー・ラムズデンはモイーズの長年の相棒だ。私と同じグラスゴーの出身で、子どもの頃は私の家から2キロほどしか離れていない、ゴヴァンの隣の地区に住んでいた。きちんとした男で、コーチとしても一流だ。三人の優秀なスタッフが仕事を失うのは残念だったが、それがサッカーの世界で、彼らが不平不満を言うことはなかった。こうした事態を招いて申し訳ない、と私は三人に()びた。二十年の付き合いのフェランは、謝る必要はないと言って、素晴らしい思い出を共にしたことへの感謝の念を述べてくれた。


 過去を振り返ると、勝利ばかりではなく敗戦の記憶も甦ってくる。FAカップでは三度決勝で敗れた。相手はエヴァートン、アーセナル、チェルシーだ。シェフィールド・ウェンズデイ、アストン・ヴィラ、リヴァプールに負けてリーグカップ優勝を逃した。チャンピオンズリーグ決勝ではバルセロナに二度敗れた。挫折の克服──それもまた、マンチェスター・ユナイテッドという歴史的な織物の絵柄だ。勝利とオープンバスの優勝パレードだけに気を取られてはいけない、とは常々思っていた。1995年のFAカップ決勝でエヴァートンに敗れたあと、私は言った。「もうたくさんだ。今すぐ変わらなくてはいけない」。そして言葉どおりにした。いわゆる92年組の若手を起用したのだ。彼らをこれ以上控えにしておく理由はなかった。特別な輝きを持つ青年たちだった。



 マンチェスター・ユナイテッドほどのチームが敗戦するのは衝撃的なことだ。しかし私にとって、落ち込んだあとに今までと同じ方法で指揮をするという選択肢は存在しなかった。決勝戦で敗れるのはつらいものだ。とりわけユナイテッドの枠内シュートが二十三本で、相手はわずか二本だったり、PK戦で負けたりした場合などは。そんなとき、私は真っ先に考えた。「これからどうしたらいいのか、すぐに答えを出すんだ」。そしてチームの改善と回復という作業に没頭した。頭を抱えているほうがよほど楽なときに、素早く計算できるのが私の強みだった。


 敗戦がベストの結果だという場合もある。失意に打ち勝つのは、誰にでもできることではない。どん底にいるときこそ、強さが問われるのだ。こんな格言がある──すべてはマンチェスター・ユナイテッドの歴史の一日に過ぎない。言い換えるなら、負けを乗り越えることもこのクラブのアイデンティティーなのだ。敗戦から目をそらしていたら、次々と黒星を重ねてしまう。ユナイテッドは残り一秒で同点ゴールを決められて勝ち点2を落としたあと、六、七連勝することが珍しくない。ただの偶然とはいえないだろう。


 ユナイテッドのファンには週末の試合で感情を高ぶらせて、その勢いのまま月曜の仕事に行くという習慣がある。2010年1月、ある男は私にこんな手紙をよこした。「日曜に払った41ポンドを返してくれ。あんたが約束したはずの興奮を、俺は味わえなかった。41ポンドを返してもらおうか」。なかなかの強者だ。こう返事を書こうかと思った。「その41ポンドは、私の二十四年間の稼ぎから引き落としてもらおうか」


 ユヴェントスやレアル・マドリードといった相手にことごとく勝利しても、少しでも日曜の試合が盛り上がりに欠けると払い戻しを迫られるのだ。世界中にマンチェスター・ユナイテッドほど心臓に悪いクラブがあるだろうか? マッチデープログラムには洩れなく警告文を載せるべきだったのかもしれない。1対0でリードされて残り二十分になったら、家にお帰りください。さもないと担架で運び出されます。マンチェスター王立病院に入院する羽目になるかもしれません。


 以下のセリフには皆が賛成してくれるだろう──損をさせられた観客などいない。ユナイテッドの辞書に、退屈という言葉は存在しないのだから。


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