私が初めて会ったプロ野球選手は野村克也さんだった(普段「監督」と呼んでいるので、本書の中では以降、監督と記すことにする)。小学生の時、母親の再婚相手として紹介されたのだ。
失礼な話ではあったが、私は南海ホークス(現ソフトバンクホークス)で活躍していた監督の名前すら知らなかった。
私は東京に住んでおり、読売ジャイアンツが圧倒的に人気があった。私もその例に漏れず、長嶋茂雄さんのファンだった。ジャイアンツ以外の選手の名前は知らず、ましてや関西に本拠地を置くパシフィックリーグなど球団名さえも怪しかった。
母親から名前を聞かされて、監督のことを調べると、三冠王となっている実績を持った打者だった。ただ、実際に会った監督は小柄で、とてもホームランを量産するようなバッターには見えなかった。
監督は私に様々な話をしてくれた。
監督は京都の田舎で、貧しい幼少期をすごしたという。冬はひどく寒く、夏はとても暑い厳しい気候の中で育ち、家にはとにかく金がなかった。貧乏な生活から脱出できるのではないかと思い、就職が決まっていたが、テストを受けてプロ野球選手になったという。
「プロに入った時、お前は壁だって言われたんだ。壁って知っているか?」
もちろん、壁という言葉は知っている。プロ野球では「壁」とは別の意味があるのだと監督は教えてくれた。
「壁ってボールをぶつければ返ってくるだろ? それがお前たちだ、と。ブルペンでピッチャーの球を受けていればええんやと言われた」
戦力として期待されているのではない。ピッチャーの投球練習のためにボールを受けるだけの選手、それが壁だった。
また、「テスト生から一軍に上がった選手は一人もいない。だいたい三年でクビになる」とも言われたという。
「それでどうしたんですか」と尋ねると、監督はこう答えた。
「二四時間野球のことを考えて、ひたすら練習していたよ」
他の選手たちが遊びに行く中、監督は一人で練習していた。
「どうせクビになるんやったら、後悔せんようにしようと思ったんや」
監督の言葉は幼い私の胸にすとんと落ちた。
監督は憧れだった長嶋さん以上の実績を残している。自分も同じように努力すればプロ野球選手になれるはずだ。それから私は重いバットを振り回しての素振り、ビール瓶に砂をつめて筋力トレーニングを始めた。
監督に連れられて、南海ホークスの試合をしばしば見に行ったものだ。印象的だったのは、試合前のフリーバッティングだ。
監督の打ったボールは、面白いようにスタンドまで飛んだ。本当に力を入れず、軽く振っているようにしか見えないのに、ボールは遠くまで飛んでいく。これならば自分でもできると思った。
でも自分でやってみて分かったことだが、監督のようにボールを飛ばすことは難しい。超一流というのは、難しいことを簡単にやってのけるのだと、後からつくづく思い知ることになる。