読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-1
kiji
0
1
1115010
0
検察の罠
2
0
0
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
私の生い立ち

『検察の罠』
[著]森ゆうこ [発行]日本文芸社


読了目安時間:6分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


 いつの間にか、民主党のなかで検察との闘いの先頭に立つようになってしまった私だが、これまで法務畑を歩いてきたわけではない。


 それどころか、2001年に参議院議員になるまでは、私はごく普通の働く母親、そして小さな町の町議会議員にすぎなかった。


 私は1956年、新潟県(にい)()市で生まれた。


 1928(昭和3年)生まれの父は、旧制の工業高校を卒業し、国鉄職員として働いていた。(ばん)(えつ)西(さい)線、()(えつ)本線、(しん)(えつ)本線の起点である新津は鉄道の町で、小学校で「お父さんが国鉄職員の人は?」と問うと、クラスの3分の2が手を挙げるような土地柄だった。


 私はどちらかと言えば成績は良く、学級委員にもよく選ばれるようなタイプではあった。ただ、いい子であったか、と言われるとそれは違う。


 中学生の頃、国語の先生が成績の悪い子をひどく差別的に扱ったことがあった。それが納得できず、級友を(せん)(どう)して授業をボイコットしたことがある。


 すぐに職員室に呼ばれた。国語の先生と、その仲間の先生が2人。取り囲まれるようにして「お前だな、扇動者は」と追及された。


 ここは泣かなければ許してもらえないところだろうな、とわかってはいたが、私は泣かなかった。大人3人で中学生1人を囲んで(どう)(かつ)するというやり方に腹が立ったからだ。しかも、そもそもボイコットした私の考えは間違っていない。最初に不当なことをしたのは先生じゃないか。私は厳しく追及されればされるほど、(こう)(ぜん)と反抗した。


 圧倒的な力で押さえつけられそうになると急に闘争心が湧いてきてしまうのが私の性分だった。この性格は今でも変わらない。


 この性格は、どうやら父譲りらしい。父は国鉄勤務のかたわら、休みの日には東京の(あき)()(ばら)へ行って電気部品を買ってきて、ラジオを組み立てたり、スピーカーを組み立てたりしていた。それを祖母が店番をする店で売り、副業の電気製品販売を徐々に大きくしていった。小さな店は、あっという間に県内でシェア第2位の家電製品卸にまで成長した。


 ところが、当時はちょうど、松下電器が全国に販売ネットワークを広げている時期だった。販売会社制度といって、各地の大手卸を吸収合併して、自社の傘下に組み入れていたのである。


 徹底して「長いものには巻かれたくない」タイプの父は、松下からの誘いに抵抗した。このあたりの性格は、みごとに私に受け継がれている。


 しかし、いくらなんでも相手が悪かった。抵抗むなしく、伯父(父の長兄)が新潟ナショナル販売の初代社長に就任する形で吸収されることになった。


 父も別の販売会社の社長職を提示されたが、それには応じず、家電の小売りで再スタートを切ることにした。


 当時は高度経済成長期で、家電が売れに売れた頃である。またしても父の事業は順調に大きくなった。そして、電気店にとどまらず、建設会社を始めたり、ニットの工場を創業したりといった新規事業にも手を広げていった。


 私が新潟大学4年のとき、父は北米カナダを視察に行った。ツー・バイ・フォー工法の視察に行ったのだが、父はまったく違うものを見てきたようだ。ニーマンマーカスのような伝統的な百貨店が衰退する一方で、新しいタイプの量販店が成長していた。「これからは日本もディスカウントの時代だ」と、郊外型のショッピングセンター、ディスカウントストアに興味を示しだしたのである。


 とはいえ、もう49歳になっていた父は新しい仕事に乗り出すことにためらいもあった。私は、今の会社がうまくいっていて、暇そうにしている父は父らしくないと常々感じていたので、「やればいいじゃない」と背中を押した。1979年のことである。


 だが、まだ「ディスカウントって何?」という時代である。スタートするにあたって、そもそも従業員が思うように集まらない。成り行き上、私が手伝わざるを得なくなった。


 大学の友達をアルバイトに引き込んだりしたのだが、実際に営業をスタートしてみると、レジを打ったり品出しをしたりする人手が足りない。仕方なく、当時英文科の4年生で、あとは卒論を書くだけだった私が朝から晩まで働くことになった。


 連日、商品の仕入れ、品出し、レジ打ち。あるときはチラシの目玉商品が1日で売り切れてしまい、格安商品を一部納品してくれていたディスカウントの元祖である(うら)()のロヂャースへ一人で商品を取りに行ったこともある。大きなワゴン車で往復600キロあまりをとんぼ返りした。


 休みはなく、早朝から深夜までまるで「女工哀史」みたいだと思ったが、とても面白い仕事だった。


 とくに面白かったのが、毎週、激安チラシを作ること。激安チラシ自体が新潟では初めてのことであった。


 1日の営業が終わった夜、店長をしていた兄と相談を始める。今回は何を目玉商品にするか、どんなキャッチコピーにするか。価格設定はどうするか。


 大体のプランが決まったら、店内から商品を集めてきて写真を撮る。そして、「夏だ レジャーだ レジャークーラー2980円」といったキャッチコピーを考え、原稿を作って印刷屋さんに入稿する。毎週これをやるのである。


 お世辞にも()(れい)とはいえない店だったが、チラシでの宣伝がうまくいくと、セール当日にはお客さんが開店前に行列をつくる。じつにやりがいのある仕事だった。


 結局、仕事に没頭した私は留年した。そうこうしているうちに、すでに知り合っていた夫と結婚。夫も店を手伝うようになり、じきに長女が生まれた。


 私が大学に入ったのはオイルショックの直後だったので、経済はインフレ基調だった。しかし、それでも当時の国立大学の授業料は、年に3万6000円だった。私は家庭教師のアルバイトをしていたので、1カ月分のアルバイト代で1年分の学費が払えた。だから私は、親から1回も学費や生活費をもらったことはない。


 この安い学費さえ払えば、留年を繰り返しても8年までは大学に在学できる。休学せずに今年こそはと論文に取りかかるのだが、そう簡単ではなかった。


 英文で論文を仕上げるために、皆、半年間は図書館とアパートの自室にこもる。新米のママとして子育てをしながら、時々店の手伝いに行っていた私には、それは思っていた以上に大変なことであった。


 いよいよ8年目。「何が何でも仕上げなければ」というので、期限ギリギリに卒論を書いて、何とか卒業することができた。


 卒業式には2歳になったばかりの長女を抱っこして出席した。


 ちなみにこの長女は、大きくなって新潟大学に進学し、卒業した。人生で2回、同じ大学の卒業式に出席したことになる。


この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:2753文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次