>
『山川さん、黒斎さん、いまさらながらスピリチュアルって何ですか?』
[著]山川紘矢
[著] 山川亜希子
[発行]日本文芸社
前世と輪廻を考える
──いまの自分は過去と同一の魂か、新たな魂か
■ 輪廻転生、前世は、あるのか、ないのか?
山川紘矢 僕も含めて、ここにいるメンバーには、臨死体験をした人はいないですよね? でも僕は、死後の世界はあると思っています。死後の世界というか、死は肉体が滅びるだけだと思います。
精神世界ではよく言われますけども、男に生まれるか女に生まれるか、誰を親とするか、どこに生まれるかも、自分で決めて生まれてくると思っています。
こういうお話をすると「えー?」っていう人もいるかもしれません。
はじめは僕も「えー?」って思っていたんだけど、いまは「ああ、そうなのか」と思っているんです。どんな境遇も、自分で選んできたって。自分ではなくて、神様が決めたのかもしれないけれど。どうでしょうか?
雲 黒斎 いや、正直言うと、いまのお話、僕はいまだに「えー?」なんです。とはいえ僕も、自分の本の中で似たような話をしているから、こんなこと言える立場じゃないんですけど(笑)。
紘矢 えー!? そうですか。
黒斎 結局は、その「アレコレを決めた自分」とは誰のことなのか。何を指して「自分」と言っているのか。それによって話が大きく変わってしまうんですよね。
紘矢 「自分」っていうのは、自分の魂。
黒斎 いや、その「自分の魂」というのが何なのか。つまり、「ワンネス」「すべてはひとつ」という視点から見たら、それこそ「ひとつ」なわけでしょう? だとしたら、両親を選ぶもなにも、その両親も含めて「自分」なわけですから。
紘矢 そうですね、ワンネスならね。ということは、「宇宙が決めた」っていうことかな。宇宙が決めたシナリオどおりに、ひとりひとりが動いているってことかな。「起こる事は起こる」って言葉もありますよね。
黒斎 そうですね。
紘矢 ということは、輪廻転生もない?
黒斎 見方によっては、「生まれ変わり」はあるけど、そこに「個別魂の継承」はありません。これもさっきと同じで、どこから捉えるかによって話が変わると思います。
ただ、やはり世間一般で考えられている「いま感じている〈私〉が肉体を脱いで、その、他と分離された命なり魂なりが、新しい肉体に宿る」といったことはあり得ません。
山川亜希子 でも、実際のところはよくわからないのだけど、私は結構、前世を思い出してしまう人で、その記憶が思い出されることによって、いまの人生が変わっていったりしているんです。
たとえば、はじめてエジプトに行ったとき、ガイドの人が「ラムセス2世という人は、すごい自己顕示欲の強い王様で……」って何回も言うたびに、なぜか私がすごく恥ずかしくなったんです。その後チャネリングすると、私の前世が、そのラムセス2世だった、とか。本当はどうかはわかりませんが。
私は、理論よりも体験派だから、そちらの感覚を優先するのだけど、やはり「輪廻はある」「前世はある」という考え方のほうが親しみがあります。
OSHOも「死ぬときの意識が生まれるときを決める」と言っていますよね。
紘矢 そういうこともあるね。
■ 「輪廻はあるが、私の人生は1度きり」
黒斎 うーん。OSHOのその言葉には、別な意味合いがあると、僕は思うのですが……。
だって、その言葉がある一方、別な場面では「輪廻転生の概念全体が誤解だ」と話しているわけですし。
これ、どういうふうに説明したらいいのかなぁ……。
そこの窓の向こうに、木が見えますでしょう? あの木を例にお話しすると、「木」って、ただ「木」として存在しているわけです。僕たち人間が勝手にそう名づけているだけだから、本来は「木」とも呼べないんですけど。
この「木」を宇宙全体、ワンネス、存在のすべて、として考えると、本当は命も魂も、この木の命、木の魂しかないわけです。
いまの人間の意識状態ってのは、この木についている葉の1枚1枚に、個別に命や魂が宿っていると、勘違いしているようなものなのです。「この1枚の葉が俺だ」というような分離意識を持ってしまっている。
そこに、「自分(葉)と宇宙(木)」という錯覚が生まれているんですね。「あの葉(人)と、この葉(人)は別々!」というように。
それで、木から葉が落ちます。でも、木は死んでいないですよね? 生き続けていますよね?
紘矢 うん。ああ、いいねえ、その考え(笑)。
黒斎 でも、「葉」を自分だと思って錯覚して生きていたら大変です。いつかその葉が落ちることは予測できます。そういう意味では、死亡率100パーセントです。
ですが、「自分」と指しているものが、「葉」から「木」に変われば、その途端に死生観は大きく変わります。
落ちゆく葉もあるし、新しく出てくる葉もある。「葉」だけにフォーカスを当てれば、そこには「死んだ(落ちた)」「生まれた(生えた)」と見えますけど、木はずっと木のままで、生まれていないし、死んでもいないのですね。たったひとつの命が脈々と生き続けている。
紘矢 うんうん。すべてだったということですね。
黒斎 だから、たとえ1枚の葉が落ちたとしても、その葉固有の命なり魂なり霊なりがあって、それが、新しい葉に宿るのではないのです。「輪廻」や「前世」というのは、そういうヤドカリみたいな「霊体の引越し」的なものではないのです。
1枚の葉が落ちて、その葉が新しい葉として生まれ出るわけではない。たくさんの葉が落ちて、やがて土に還り、それらが養分となってまた木に吸収されて新しい葉が出てくるけど、その時はもう「あのときの葉の養分」と切り分けられません。
仏教が「無我」と説くように、本当は「私」と呼べる実体は存在しません。「私」という個人が存在しないのですから、当然「私の記憶」「私の感情」と呼べるような「個人の所有」もあり得ないのです。
多くの人が誤解している大元にあるのは、この、「〈私〉というものがある」という感覚で、この感覚のまま輪廻の話を理解しようとしてしまうから、おかしなことになってしまう。
だから、いま感じているこの「私」という視点を軸に考えるなら、人生は1度限りです。でも、その「私」という観念を剥いだ意識としての「存在」が消失するわけではないんですよね。
そういうことで、「輪廻はある。ただし、〈私〉の人生は1度きり」なんです。
紘矢 つまり、私たちはすべての経験を持って生まれてきたから、イエスであったことも、ブッダであったこともあれば、貧しい人であったのかもしれない。
黒斎 そうそう。だから、そういう意味では、僕たちみんな、これまで他界された、あらゆる人の生まれ変わりなんです。特定の誰かが誰かに生まれ変わっているわけじゃない。