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プロ野球「黒歴史」読本 メディアを騒がせた75人の男たち
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エンタメ
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清原和博

『プロ野球「黒歴史」読本 メディアを騒がせた75人の男たち』
[著]手束仁 [発行]イースト・プレス


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西武→巨人→オリックス

PL学園時代には桑田真澄とともに1年夏から甲子園に5季すべて出場。優勝2回、準優勝2回と圧倒的な結果を残す。ドラフト会議では巨人入団がならず涙の西武入団となったが、その後、FAで巨人入団を果たす。


なぜ「好青年」は「番長」に変貌したのか



 四字熟語に「()()(ほう)(へん)」があるが、それはまさに清原和博という選手に対するメディアの扱いのことではないかと思えるほどだ。それくらいに清原が1986年(昭和61年)に西武入りしてからFAで巨人に移り、やがてオリックスに移籍して引退という流れのなかで、そのキャラクターの変化が顕著なのである。


 PL学園時代の清原は、1年夏から3年夏までのすべての機会で甲子園出場を果たしている。しかも、どの大会もベスト4以上という成績は、KKコンビといわれたPL学園の桑田真澄と清原をおいてない。甲子園で通算17本塁打を放ったときには実況アナウンサーを「甲子園は清原のためにあるのか!」と絶叫させた。そんな伝説を残した男は、当然のことながら、85年のドラフト会議で最大の目玉となった。


 高校生選手では最大の目玉であるという自覚は本人にもあるのは当然だ。そして当然のように巨人を熱望し、巨人も清原の1位指名を明言していた。ところが巨人の1位指名は清原ではなく、同僚で早稲田大進学を打ち出していた桑田だった。


 結局、6球団競合の末に西武がくじを引き当て、清原は「巨人桑田指名」に涙を流して、巨人への未練を残しながらも西武入りした。その西武では1年目から活躍する。入団の経緯もあって、清原に対しては、非情な運命を受け止めて、それでもひたむきに自分の世界で結果を出していく健気な好青年というイメージがつくられていった。


 1年目の成績は打率3割4厘、打点78、本塁打31という数字で新人王に輝いた。チームは日本シリーズで広島を下して日本一になった。


 黄金時代を迎えていた西武である。翌年も日本シリーズに出場する。相手は清原を袖にした巨人だった。その第6戦、西武リードで迎えた9回。日本一を目前にして、一塁の守備についていた清原は涙を流し始める。清原の巨人への純粋な思いの強さをうかがわせるシーンであった。


 清原の純粋で爽やかな青年のイメージはさらに固まっていった。21歳9カ月という史上最年少での100本塁打達成や、23歳での1億円プレーヤー到達という勲章も得た。()()のスーパースターとして、西武の看板選手というだけではなく、パ・リーグの看板選手として優勝8回、日本一6回を経験した。


 ところが清原の巨人への思いは、そんな西武でつくりあげた自分のイメージをうっちゃってもなお余りあるものだった。FA権を獲得し、11年目を終えた96年オフ、清原はFA権を行使してセ・リーグへの移籍を希望した。気がついたらプレースタイルもいささか変化し、いつしか強烈な個性を発散するようになっていた。そんな清原の個性を求めて、セ・リーグ唯一の関西球団の阪神が名乗りを上げた。当時の吉田義男監督の「阪神のタテジマをヨコジマにしても欲しい選手」という迷言が話題となった。


 しかし、清原の思いに対し、巨人の長嶋茂雄監督は永久欠番の“3”を与えてもいいとまで持ち出し、「僕の胸に飛び込んできなさい」とラブコールを送った。結局、清原は当初の希望をとおした。ただし、背番号は5に落ち着いた。


 夢にまで見た「GIANTS」のユニフォームに身を包んだ清原だったが、西武時代とは立場も待遇も違っていた。当時、巨人には看板打者として生え抜きの松井秀喜が育ってきていた。一方で前年までの主軸だったFA権行使の先輩の落合博満が、みずからの意思で巨人を出ていった。優勝請負人のはずだった落合を追い出した清原というイメージを持たれた。だからマスコミやファンは早々に結果を求めた。


 しかし、初めて対戦することが多いセ・リーグの投手に対しての戸惑いがあった。しかも結果が出ないとすぐにメディアなどで(たた)かれた。その批判は西武時代の比ではなかった。負け試合では、清原が一度でも好機で凡打すれば、その敗因を押しつけてくるような記事が多かった。気がついたら、いつしか清原は巨人のもたつきの原因であるかのような存在になってしまった。結果として清原の巨人1年目は4位。巨人としては6年ぶりのBクラスとなり、その戦犯として清原が挙げられた。


 老舗球団として球界の盟主を自負する巨人は常勝軍団であらねばならなかった。ところが、それを新盟主となっていた西武から来た清原によって崩されたような形になってしまった。清原自身もプロ野球生活12年目で初めて味わうBクラスでのオフとなった。皮肉にも、それが憧れの巨人のユニフォームを着た1年目だったのだ。


 ちょっと六本木に飲みに行っても、その姿をメディアに追いかけられるようになった。記事はいくらでもつくられた。写真週刊誌がそんな清原の姿を追いかけて「番長日記」なる記事をつくるようになった。写真という動作の断片的な部分を押さえて、それに対して好き勝手にコメントやら記事を書き込まれていった。事実に反することさえもおもしろおかしく書かれるようになって、いつしか悪党(ヒール)という存在となっていった。


 もともと気性の荒いことで知られている大阪・岸和田の出身である。気に入らないときには関西弁でちょっとスゴむような態度を示して見せると、それも記事として取り上げられていって、ますます悪党(ヒール)像を固められていった。筋力トレーニングに励んだことで筋肉はたくましくつくりあげられていったが、それも強面なイメージを増長した。こうして、いつしか巨人・清原のイメージは、完全なる悪党(ヒール)となっていったのだった。


 それでも01年には134試合に出場して打率2割9分8厘、29本塁打、たった一度の3桁打点121という数字を残した。しかし、9年間在籍した巨人で西武時代と(そん)(しょく)ないと感じられたのは、この年の数字だけだった。05年オフに戦力外通告を受けてオリックスに移籍。2年間プレーして引退することになった。


 しかし、16年2月3日、プロ野球がキャンプインして早々、清原の逮捕が報じられた。覚せい剤取締法違反(所持)容疑だった。やがて同使用容疑でも再逮捕された。「容疑者」となり、ヒーローの面影は消え、まさにヒールになってしまったのは残念だ。

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