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プロ野球「黒歴史」読本 メディアを騒がせた75人の男たち
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エンタメ
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W・デービス

『プロ野球「黒歴史」読本 メディアを騒がせた75人の男たち』
[著]手束仁 [発行]イースト・プレス


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中日→クラウンライター

1960年(昭和35年)にドジャースでメジャーに昇格して活躍。その後、エキスポズ、レンジャーズ、パドレスなどを経て77年に中日に入団。チームになじみ切れず1年でクラウンライターに移籍し、その後、帰国してエンゼルスに入団している。


打棒爆発も「上から目線」で(だい)(ひん)(しゅく)



 中日ドラゴンズは、その球団史のなかでサプライズを頻繁に起こしてきている。ことに選手獲得に関しては日本の球団として初めてメジャー経験者を入団させている。それが1962年(昭和37年)のラリー・ドビーとドン・ニューカムだった。ともに引退した直後ではあったが、当時は日米の力の差が歴然としていた時代でもある。「元メジャーリーガーを獲得」と当時の地元紙では大きく報じられた。


 そしてシーズン途中からの入団にもかかわらず、二人は桁違いのパワーを見せつけ、その後の外国人助っ人ブームの先駆けとなった。翌年は現役メジャーリーガーのジム・マーシャルとロバート・ニューマンをシーズン当初から迎え入れている。


 こうして中日は外国人獲得でも歴史と実績をつくってきた。だから中日が獲得する外国人は注目度が高いし、信頼性が高いと判断されていた。


 74年に()()(みね)(かなめ)監督率いる中日はジーン・マーチン、ジミー・ウィリアムらの活躍もあって20年ぶりの優勝を果たしている。その翌年は広島に覇権を譲ったものの2位。しかし、76年シーズンは谷沢健一が首位打者に輝き、田尾安志が新人王を獲得しながらチームは4位という結果になってしまった。そこで中日は打線強化に動き出した。大物メジャーリーガー獲得が至上命令となっていたが、いささかぬるま湯体質になっていた中日打線に強烈な刺激を与えて体質改善を進めていくという狙いがあった。


 そうしてたどり着いたのがドジャースの三番打者として活躍し、その後もエキスポズ、レンジャーズ、マリナーズ、パドレスと移りながらメジャーで通算2561試合に出場と、その実績は申し分ないウィリー・デービスの獲得だった。


 ただし、「怪人」の異名を取っている存在である。その取り扱いにはいくらか注意を要するという情報が入っていた。しかし、チームに刺激を、という面からすれば多少は荒くれ気味のほうがいいのかもしれないという思いもあった。それに与那嶺監督はハワイ育ちの日系人で、外国人の扱いには慣れている指揮官である。


 そんな判断で獲得したデービスだったが、パワーに加えてその快足も魅力で、5月14日のナゴヤ球場での巨人戦ではランニング満塁本塁打を記録して度肝を抜いた。前年から巨人の本拠地の後楽園球場が人工芝になって、その人工芝では中日は勝てないということが続いていたのだが、そんな中日ファンの(りゅう)(いん)を下げた快打、快走であった。


 しかし、デービスはムラっ気があって、ここ一番という場面では勝負弱いこともしばしばだった。それに打てない責任をほかに転嫁することが多かった。チームはもうひとつ浮上し切れないでいた。


 それにデービスの態度のそのものも、とても日本の野球になじもうというものではなかった。およそチームワークや日本人選手たちが高校野球や学生野球の場を経て学んできたようなチーム一丸となってチームのために戦うという姿勢はみじんも見られなかった。ベンチでは勝手気ままに振る舞い、首脳陣の手を焼かせた。


 与那嶺監督に対しては、従うというより、「オレのほうが偉いんだ。オレのメジャーでの実績はマイナー育ちのお前とは違う」というような態度をあからさまに見せることがあった。この取り扱い注意品は、本当に、とても取り扱い切れないものだったのだ。それでも7月8日には2打席連続本塁打を放って、星野仙一の通算100勝を祝って握手するなどという面を見せていた。


 要は気まぐれだったのだ。ユニフォームのボタンを二つも外して着るなど少年たちの手本にはなれない。意図的に乱しているとしか思えないような様子があからさまだった。それを注意するとまた荒れるのだから始末に負えなかった。


 デービスのトラブルはプレー以外の部分でもいくつか生じてきていた。遠征先の選手用の風呂では湯船で(せっ)(けん)を使ったうえ、西洋風呂のように入浴後に湯を全部抜いてしまったり、記者会見に裸で現れたりするなどということがあった。


 まさにチームにとってもメディアにとっても、そしてファンにとっても悪党(ヒール)的な存在だった。ところが性格の気まぐれさそのままに打つこともあるので、やはりその長打は魅力ということになる。それに打率は残していたので、なんだかんだいいつつも、与那嶺監督としては外しづらかったというところがあったのだろう。


 傍若無人な振る舞いが多く、宗教の関係で試合前にお経を唱えることがあった。一部では来日したのも、じつはその宗教が理由だったという説もあったくらいだが、あながちそれもウソではないかのような振る舞いであった。


 そんなデービスだったが、8月2日の広島市民球場での広島戦でセンター頭上の大飛球を追ってそのままフェンスに激突。左手首を骨折したということで帰国すると、その年はついぞ日本に戻ってくることなくシーズンを終えた。それでも、そこまでは72試合で25本塁打、打率3割6厘の成績を残していた。


 その後、中日はなんとか持ち直してきて、後楽園の人工芝での連敗も前年からの19でストップさせるなどして、デービス不在となったのちはベンチも明るくなり、ムードが上がってきて、最終的には3位に浮上してシーズンを終えた。


 与那嶺監督はその年で6年間務めた中日監督を辞したのだが、そのラストシーズンに現れた怪人をどのように思っていたのだろうか。


 そんな怪人に興味を持ったのは、根本陸夫監督率いる新生クラウンライターだった。宗教をちらつかせながら再来日させたが、その後はフロント入りして寝業師と呼ばれた日本球界の怪人・根本監督でさえ持てあましていたのだろうか。1年かぎりだったが、それでも127試合に出場して18本塁打を放った。


 その後、メジャーに復帰してエンゼルスでもプレーしたが、両親を脅迫して逮捕されたという報が入ってきた。

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