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プロ野球「黒歴史」読本 メディアを騒がせた75人の男たち
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エンタメ
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堤 義明

『プロ野球「黒歴史」読本 メディアを騒がせた75人の男たち』
[著]手束仁 [発行]イースト・プレス


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西武

父・(やす)()(ろう)の事業を引き継いだ形で西武鉄道グループのオーナーとして日本の高度成長とともに歩んできた事業家。1978年(昭和53年)にクラウンライターを買収して埼玉県所沢市を本拠地とした西武ライオンズのオーナーとなった。


財界の盟主はプロ野球に何を求めていたのか



 東京大空襲で(ぼう)(くう)(ごう)に避難する多くの人々。そのなかに不動産業者であり、土地開発の事業家として名を挙げた堤康次郎がいた。多くの人々が逃げ惑うなか、自宅に設けた防空壕のなかで、空襲で焼け野原になった土地を次々と買収していく手立てを考えていたという。それがのちの国土計画(現在はグループ再編により解散)、西武鉄道グループの礎となっていった。


 その堤康次郎の三男として誕生したのが義明だった。もっとも優秀な後継者を育てるには一夫多妻制こそふさわしいと考えていた康次郎だったから、義明はほかの兄弟とは母親が異なっている。


 そうしたなかで自分の後継者として最もふさわしいとされて指名された義明は、早稲田大に在学中から帝王学を叩き込まれ、大磯ロングビーチや軽井沢スケートセンターを成功させた。さらに卒業するとすぐに父親の事業を継承する形となった。


 そんな堤義明がプロ野球の世界で名を知られるようになったのは、1978年(昭和53年)に福岡で経営に苦しんでいたクラウンライターライオンズを買収したときからだ。


 クラウンライターの前身は西鉄で、かつては稲尾和久、中西太、豊田泰光といった猛者を擁して「野武士軍団」といわれ、一時代を形成したこともあった。しかし、その後は経営難に陥り、やがて身売りしてネーミングライツを太平洋クラブに譲渡。それも4年しかもたず、クラウンライターに譲渡した。そのクラウンライターもわずか2年でネーミングライツを手放すことになったのである。その間、太平洋クラブ時代に一度だけ3位になったのを最高として、ほかはすべてBクラスだった。


 プロ野球は新時代となり、かつての西鉄ライオンズ時代の栄光を知らないファンが多くなってきていた。そんな時代に万年下位のチームを買収したのだ。そのころのライオンズの経緯からしても、「よくもって数年で手放してしまうんじゃないか」。そんな見方をしているファンは少なくなかった。


 だから必ずしも西武の球団買収は順風には見えなかった。しかし、堤は従来の映画会社のオーナーが自分の道楽として球団を買収して、勝とうが負けようが自分のチームを持っていることに満足したというスタイルではなかった。プロ野球そのものをひとつのビジネスステージとして考えていたのだ。だから土地開発と同じ感覚だった。


 本拠地を福岡県から埼玉県所沢市に移転し、そこにスタジアムを建設したのも、西武鉄道を利用して集客するという発想だった。だからスタジアムのすぐそばに最寄り駅をつくる必要があった。ただし、それだけではオフの間には人が来なくなってしまうので、ほかにもイベント施設を設けていった。


 また、営業ツールとしてシーズン席を企業などに積極的にセールスしていくことで日々の営業リスクを少なくしていくことも考えた。同時に西武鉄道沿線を開発していくことと、沿線に西武球場があってプロ野球の試合が見られるのだということを積極的に宣伝していった。こうしてビジネスケースとしてのプロ野球球団運営のひな形をつくりあげていった。


 さらに集客の条件ともいえる目玉商品が必要なのだが、そのためにセ・リーグの人気球団である阪神のスター選手だった田淵幸一をトレードで獲得する。一方、傘下のプリンスホテルに社会人チームをつくることでアマチュア球界の有力選手獲得のための下地をつくっていった。監督は根本陸夫がクラウンライター時代から引き続いて指揮を執ったが、監督としての采配というより、その後の根本は経営に参加することで手腕を発揮するようになる。それが西武王国をつくりあげていく礎となった。


 こうしてスタートした西武球団。「やるからには球界の盟主を目指す」と意気込んだ堤はライバルを巨人と見据え、そのためには日本シリーズで巨人を倒して日本一になることだと睨んだ。そうして巨人出身ながら、監督としてヤクルトで巨人を倒した実績のある広岡達朗を指名した。


 根本の画策もあって先を見据えた強化体制が整っていた西武は、広岡監督招聘1年目から成果を上げ、連続日本一で「西武強し」を世に示し始めた。広岡監督が4年間務めたあと、同じく巨人出身の森祇晶がコーチから昇格。力を蓄えてきていた西武は森監督のもと、3年連続で日本一の座に就く。「球界の盟主は西武になった」とまでいわれるようになった。


 しかし、堤オーナーにとっては、日本一になってもプロ野球にビジネスとしてのおいしさをそれほど感じなくなっていたというのが本音であろう。かぎられたキャパシティーのなかでの興行で、しかも選手が活躍すれば人件費もそれにつれて上がっていく。思っていたほどわりのいい商売ではないということに気づき始めていた。


 そんな矢先の89年、チームは4連覇を近鉄に阻止された。優勝を逃した森が、来季への立て直しを誓う気持ちで堤オーナーのもとを訪れ、多くの取材陣も集まったなかでの公開報告会見となった。初めて優勝を逃した悔しさを抑えながらの森だったが、来季の自身の進退を含めて聞こうとすると、「監督がやりたいのであればどうぞ、おやりになれば」とそっけなくいい放たれた。


 ワンマンオーナーとしては、もはや野球なんてどうでもいいビジネスになっていたのだろうか。さすがの森も返す言葉を失った。メディアも味もそっけもない堤オーナーの態度を皮肉った。


 土地開発やそのほかの利権ビジネスに比べて、プロ野球は華やかで目立つ存在ではあるけれども、ビジネスとしてはそれほどのものでもなかったということか。それでも手放さないでやっていてくれたことに、ファンとしては感謝すべきなのだろうか。


 その翌年から再び3連覇して、森は勝負師としての意地を示した。

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