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サッカーと愛国
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はじめに

『サッカーと愛国』
[著]清義明 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:6分
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「サッカースタジアムは、巨大な建造物の中で裏表が逆になっている数少ない建物のひとつである。楕円形の競技場は世界を排除し、その神秘を、秘伝を授けられた者たちにしか明かさない。テレビでさえ、それを犯すことはできない。とらえ始めることさえできない」

──ティム・パークス 『狂熱のシーズン ヴェローナFCを追いかけて』




「2002年日韓ワールドカップがネット右翼を生み出した引き金となった」と言うと、戸惑う人が多い。そして怪訝な顔をして問い返してくる。サッカーがきっかけですか? 本当にそうなんですか?



 だが、サッカーの世界にはそういう例はたくさんある。ユーゴスラビアの内戦と分裂が、スタジアムでのフーリガン同士の暴動が導火線となったこと。「アラブの春」(2010年から2012年ごろにアラブ各国でおきた大規模反政府デモ)のなかで勃発したエジプト革命は、首都カイロの名門サッカーチームのサポーターが雌雄を決したこと。サッカーが政治の世界で衝撃的なインパクトを与えることは、これからも続いていくだろう。


 日韓ワールドカップが「嫌韓」の決定的な意味合いをもったのは、インターネットの隆盛と強い関係を持っている。無意識のように構造化されている匿名掲示板が、サッカーの力を利用して爆発したのだ。政治がサッカーという電流の一撃によって動いた一例と言えるだろう。



 サッカーはナショナリズムと強い親和性がある。サッカーには、ひとつの同じチームを応援する人たちの「共同体=ネーション」をつくる回路があるからだ。村と村との戦いにサッカーの起源があるとよく言われる。19世紀、故郷を失って村から都市へ出て働く労働者は、サッカーチームに故郷の代替物を見出した。そこでは、選手は自分たちの代表にすぎない。戦っているのはあくまでもその共同体に所属するすべての人たちなのだ。



 サッカーがそのような「ネーション」として機能するとき、それが国家に結びつくときもあれば、それに抗する人たちのムーブメントと結託することもある。善と結びつくのか、悪と結びつくのか、これはケースバイケースに過ぎない。


「だからこそサッカーと政治は切り離すべきだ」という、多くの人の意見は正論だと思う。しかし、それは非常に難しい。そもそも近代のスポーツのはじまりは、国民国家を発動させる装置のようなものであり、その存在そのものが政治的であったからだ。


 人類の長い歴史のなかで、国民国家がはじまってからは、まだ200年程しか経っていない。それまで、国家は人々のものではなく、誰かの所有物だった。それが王であったり、神であったりしたのが、ある日、「私たち」のものとなったのだ。ところが、見知らぬ人同士が、自分たちをひとつの仲間のように意識するのはとても難しい。そのために、歴史や文学のようなものが動員される。そして、「私たち」とそれ以外の人を分けていく。敵と味方を名実ともに見せつけるスポーツは、この「私たち」の確認にうってつけのものだ。



 一方で、不思議なことに、このサッカーという「ネーション」はもともとマルチカルチュラルな作用をもつ。FIFA(国際サッカー連盟)は、欧州のリベラルでカント的な世界認識をベースにし、世界中すべての人々はサッカーを通じて平等であるという理念を誇り高く掲げている。サッカーによって、世界はひとつになり、肌や目の色、言葉や宗教の違いを乗り越えるというコンセプトだ。FIFAはそのようなコスモポリタニズムに裏打ちされている。



 さらにもうひとつ。そのはじまりが村と村との戦いであった起源から脈々と続くように、サッカーが中心となるネーションは、国家とはまったく違う原理をはじめからもっている。イギリスの故郷を喪失した労働者階級は、自分たちの拠り所をスタジアムに求めた。むしろそこでは、国家の論理は彼らと逆立するものだ。社会では、国家と個人の中間にある自発的なネーションは、様々に存在する。そのなかでも、現代において強固な連帯をもつものがサッカーなのである。このことは本書で特に追いかけようとしたテーマのひとつだ。



 サッカーは、コスモポリタニズムとナショナリズムがコインの表裏のように一体となり、さらにそこに、国家とは別のネーションの論理が(きし)みながら絡みあい、事態を複雑にする。それが何を巻き起こして、どこへ行くのか、今のところ予測は不可能である。



 本書では、そうした様々なサッカーとナショナリズムの複雑な関係を、フィールドワークをもとに記していく。



 第1章「モンスター化した『ぷちナショナリズム』」では、2002年のワールドカップと日本の嫌韓や差別主義との関係を追った。新大久保で排外的な差別デモを繰り返すグループと、対峙するカウンター側の双方にサッカーファンがいることを通じて、サッカーとナショナリズムの関係のひとつのケースとして考える。


 第2章「ソウルに翻る旭日旗」では、韓国のナショナリズムについて、サッカースタジアム中心の視点で考える。そして韓国を含めたアジアのサポーターが、本当に「反日」なのか、その正体はなんなのかについても見てみたい。


 第3章「『JAPANESE ONLY』の暗闇」では、浦和レッズのスタジアムで起きた「JAPANESE ONLY」の横断幕の真相について記した。そして、その横断幕がターゲットにした()(ただ)(なり)の親子の物語を、そこに「在る」ものとして伝えたい。


 第4章「バナナを食べるサッカー選手たち」では、ナショナリズムの果てにある差別問題と対峙する欧州サッカーについてまとめた。ダークなナショナリズムに対して、サッカーはどのように闘ってきたか。そこにあるコスモポリタニズムが焦点である。


 第5章「サポーターは世界で闘う」では、総じて右派的ナショナリズムがフーリガニズムと親和しているかのような論調に異議を唱えるためにまとめた。「ハンブルクの海賊」ザンクトパウリをはじめ、リベラリズムにサッカーサポーターが結集している姿をまとめている。ともすればネガフィルムの中でしかとらえられないサポーターの姿を、違う角度に反転させたい。



 LEDのライトに照らされた(まばゆ)い緑のピッチを囲むようにして、壮麗な円形のスタジアムは、現代の神殿のように(そび)えている。元日本代表監督のイビチャ・オシムは、「スタジアムは現代の教会である」と言ったことがある。毎週末、サポーターは礼拝に向かうようにスタジアムに足を運ぶ。そのなかで起きたことは、その求心力ゆえに、スタジアムを超えて世界に波及する。


 私は本書で、サッカーとナショナリズムの謎を解明しようなどとは思っていない。それにひたすら魅了されながら、知らぬうちに翻弄される人々と、それでもそこから見出される希望のようなものについて、フィールドワークの成果を報告するだけだ。願わくば、その秘伝を少しでも読者に垣間見させられんことを。



なお、本文中に掲載しておりますURLは2017年1月現在のものです。

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