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革命とパンダ 日本人はなぜ中国のステレオタイプをつくりだすのか
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政治・社会
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「革命中国」イメージの構築

『革命とパンダ 日本人はなぜ中国のステレオタイプをつくりだすのか』
[著]張予思 [発行]イースト・プレス


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各政党の態度


 中華人民共和国と国交がなくても、日本政界は常に中国に深い注意を払っていた。とくに、時の自民党政権は60年代に入って、中華人民共和国との国交正常化問題が緊迫な問題となってくることを意識していた。


 自民党政権が中国に敬遠と批判の態度を取り続けるのには、中国の核開発への危惧、冷戦体制の下およびアメリカ占領の下に置かれた状況からの「立場」の配慮、台湾の中華民国政府との関係などがあるが、1966年から始まった中国の文化大革命に対する疑念も大きな原因だった。佐藤栄作は一般的に認識されるほどの反中ではなかったという観点もあるが*2、中国の核武装化への過大な憂慮、台湾との関係の不明確さから、表面ではいかにも「親米親台」の「反中」であった。「佐藤は、中国の核及びミサイル開発の進展と文化大革命の熱狂に接して、当初の中国に対する『友好的』な姿勢を大きく変化させていくのである」(波多野 2004)との記述のように、核武装への心配がニクソン訪中でただの「杞憂」と明らかになったが、当時の情勢、中国の文化大革命、およびアメリカの核への態度からありうるものでもあった。


 1969年の、文化大革命開始三年後にも、佐藤は文化大革命への懸念を薄めることがなかった。同年の3月6日の参院予算委では、佐藤には次のような答弁があった。



 松永忠二(社会) ……中国側は、このジョンソン声明などから、佐藤内閣は戦後の内閣で最も反動的であり、反中国的だということを言っていた。いまや……ニクソンの新大統領出現、あるいは文化大革命と収束の時期に入って、転換するかどうかという時期にきている。日中関係は明らかに悪化をしてきたんだが、これは中国を含めて国際情勢が変化したんで日本側には責任はないんだというような総理のお考えですか。


 佐藤首相 どうも私は日本側に責任がないと、かように考えております。……まだまだ中国の態度というものは共存の立場になかなかいっておらない。……私ども自身、幾ら平和に徹し、お互いに友好親善を深めよう、こういうように申しましても、その手がかりがないというのがその状況であります。(朝日新聞社 1972)



 社会党の日中関係に関する追及に対しても、佐藤はやはり文化大革命への危惧をなくすことができず、「革命中国」に接近できないままでいた。時の佐藤政府と自民党政権は共産主義へまったく「幻想」と「好意」を抱くことがなかったといって良いだろう。中国共産党と同じ理念を抱くはずの日本共産党、共産主義に連帯を持つ社会党と違い、自民党の政権はその共産主義とは真逆の立場を取っていた。


 そのような態度から、外交にも共産主義の革命中国と対抗できる策を講じていた。波多野(2004)によると、佐藤内閣は1950年代の日本政府の政策を引き継ぎ、中国の共産主義の拡大へ対抗するため、東南アジア諸国への援助に力を入れていた。

「要するに、日本のアジア政策は、新興アジア諸国のナショナリズムが、地域紛争を生む方向に発展し、さらにそこに共産主義勢力が浸透してきて地域的不安定が増すようなアジア秩序から、経済発展と政治的安定に彩られた秩序に変容させることであったのである」(波多野 2004)


 しかし佐藤は共産主義と文化大革命に対して、いったいどれぐらいの理解をもっていたのだろうか。

「また佐藤は、中国の核戦力の『能力』よりも、明らかに中国指導者の『意図』の不透明性、非合理性を脅威と考えていた。佐藤は、一九六六年九月七日にマクスウェル・テーラーに対して『中共は林彪を中心とする軍部が党の支配権を握ったごとくであるが経験から言っても、今後中共が治まった後、中共軍部が乱暴な対外政策をとることが考えられる』(北米局『総理・テーラー大統領会談録1966年9月7日』)と述べていた。この『経験』とは、戦前の日本軍部の独走行動のことであった。さらに佐藤は、同年一二月にはラスク国務長官に対して、『中共につき最も心配なのは、次の指導者が林彪になるかというようなこともあるが、むしろ、中共が核武装したことから、気ちがいに刃物という事態になる心配である』(『総理・ラスク長官会談録』1966年12月6日(『米国要人訪日』))とまで述べていたのである」(波多野 2004)


 この証言のように、佐藤に代表される自民党政権は、文化大革命の真っ只中の「革命中国」については、はっきりした形の脅威よりも、不確定性に満ちた「未知の恐怖」として捉えていたことが明白であろう。


 このような政府のもとで、中国の文化大革命へのアプローチは極めて少なく、自民党が構築した「革命中国」のぼんやりした悪のイメージに対して、時代の共産主義の理想をどの政党に託すことができるだろう。真っ先に考えられるのは日本共産党だが、1966年3月の北京でのコミュニケの合意失敗をきっかけに、日本共産党と中国共産党の関係は決裂する道に至った。その後、日本共産党内の親中派が脱退や除名などになった。1960年代の日本共産党機関紙「赤旗」の中華人民共和国に対する論調の「特徴的なことは、中国共産党の日本共産党に対する干渉に対して、もうこれ以上黙っておれないと、『(かく)(らん)者への断固とした回答』(『赤旗』一九六七年八月二十一日)『今日の毛沢東路線と国際共産主義運動』(『赤旗』一九六七年十月十日)などの論文を発表して、痛烈に批判したことである」(永田久光 1973)。


 コミュニケの合意失敗以外にも、もう一つ重大な事件があった。1967年8月3日から8月4日、中華人民共和国より帰国しようとした紺野純一(「赤旗」北京特派員。「人民日報」の招待で駐在)、砂間一良(日本共産党中央委員、元衆議院議員。中国共産党中央委員会の招待で滞在)の両名を紅衛兵や日本人留学生らで構成された自称「日本人紅衛兵」が監禁し、集団で暴行を加えたとされる事件が発生した。この北京空港事件(当事者によって「テロ」と表現された)で、日本共産党と中国共産党は完全な対立関係となった。


 砂間は1967年11月3、4日の「赤旗」で「北京から帰って」という論説を発表し、「両党関係の今日の事態のすべての責任は毛沢東極左日和見主義、大国主義一派にあります」と批判。中国の文化大革命に関しては、「『毛沢東思想』に盲従しない『実権派』なるものの打倒が主目的であったことは、明らかです。この意味では、まさに政治闘争です。

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