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革命とパンダ 日本人はなぜ中国のステレオタイプをつくりだすのか
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政治・社会
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「パンダの国」イメージの確立

『革命とパンダ 日本人はなぜ中国のステレオタイプをつくりだすのか』
[著]張予思 [発行]イースト・プレス


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 パンダの来日はいきなりのブームを引き起こした。その経緯およびパンダ来日後の諸事情について、今日なお大量の詳細な資料が残っている。当時の他の社会性のある事件に比べたら、その資料保存の仕方もずいぶん丁寧のように見受けられる。ここでまずパンダブームの経緯を整理しよう。*22


 国交正常化の宣言とともに贈呈が決まったパンダだが、その二頭のカンカンとランランが1972年1028日午後6時55分、関係者多数が出迎える羽田空港に、日航特別機で到着した。この運搬に関して、JAL(日航)とANA(全日空)の争いもあったと言われている。そして中国から北京動物園の飼育係、北京市公用局長、通訳が付き添った。


 二頭のパンダが上野動物園に同日午後8時30分に到着、8時40分から、待ち構えていた約200人の報道陣と対面後、仮住居であるトラ舎に収容された。この時、黒柳徹子も待ち構える一人だった。パンダが着いてから11月3日まで検疫を受け、11月4日午前9時、上野動物園では、カンカンとランランの歓迎会が盛大に行われ、その後報道陣に公開された。歓迎会で、二階堂官房長官が中国代表からジャイアントパンダの絵を贈られる。


 11月5日から一般公開が始まるが、初日に実際見られたのは1万7880人。「パンダ舎は2~3時間待ちで、ようやく順番が来ても『止まらないでください』と言われて、横目で観ながら通過するだけというありさまでした」と上野動物園の元飼育係が語る(佐川 2007)。


 更に、11月5日から1130日までにパンダを見た人は15万1560人に達した(どうぶつと動物園 1973.1)。この時の展示時間が10時から12時までで、月曜と金曜が休息日。この短い公開時間は後に何度も修正され、パンダの人気ぶりの証明になった。


 1218日から、トラ舎に仮住まいしているパンダの新居の建設工事が、旧サル電跡で始まった。新居は床面積約153平方メートル、運動場面積(予備運動場、中庭をふくむ)約243平方メートル、笹倉庫12平方メートルで、運動場には水浴び用のプールもあり、観客側は見やすいようにガラス張りとなっている。寝室は冷暖房完備で、そのほかに空気清浄装置、加湿装置、モニターテレビなどが備えられている。竹や笹を保存する笹倉庫の庫内は5~10度に保たれ、約1トンの竹、笹を保存することができる。ほかの動物は決して味わうことのできない豪華な部屋であった。


 この新パンダ舎は翌年4月24日に完成披露が報道陣を前に行われ、5月7日にカンカンとランランは新パンダ舎に引っ越した。更に5月10日に、石内展行上野動物園長、浅倉繁春多摩動物公園長、訪日中の中国代表団(団長廖承志婦人の経普椿、尚向前中国大使館参事官ら)、美濃部亮吉都知事、そして横浜の中華学校の生徒、台東区立忍岡小学校の生徒らが参列して盛大に完成を祝った。このようなパンダに関する行事に、日本も中国もかなり高レベルの政治家が出席することが慣習となっていく。


 1973年のお正月に、上野動物園に大量のパンダ宛ての年賀状が届いた。住所がなく、直接「パンダ様」などの年賀状も多かったという。そして上野動物園が所属する東京動物園協会もこの1月1日から、ハンドブック『ジャイアントパンダ』を定価150円で発売していた。更に、短い公開時間が観客の要望を満たさないことを受け、1月1日から、サル山前広場と、ゴリラ舎前広場に「パンダテレビ」を設置し、パンダの生活状況を来園者に見せることになる。


 上野動物園のパンダにまつわる努力はほかにも多々あった。1972年から1973年2月に、上野動物園西園の短期展示館ではパンダ資料展「ようこそパンダちゃん」を催している。内容は、パンダをむかえるまで、ジャイアントパンダ、パンダ百科、ぼくのしんせき、私のたべもの、私のおうち、世界のパンダたち、など(どうぶつと動物園 1973.2)。73年の3月から5月まで「ランランとカンカンの日記」という展示が行われた。


 1973年2月1日から、パンダの展示時間は9時30分から12時、月曜と金曜の休息日が祝日と重なった場合は公開することになった。2月28日まで、合計55万3497人がパンダを観覧。全国から激励の手紙も約450通に達した。3月頃には返事用のはがきができ、上野動物園から順次返事を発送することに決まった。6月20日からは、9時30分から15時まで展示時間が延長、月曜と金曜が休息日になった。


 1973年1031日まで、パンダ来園一年で、パンダを見た人は386万7728人に達した。さらに半年後の1974年3月20日から、展示時間が9時30分から16時まで延長となった(月曜と金曜の休息日は変わらず)。


 パンダは1972年のいきなりのブームから、様々なイベントと行事を重ね、日本社会に絶えず話題を送り出してきた。展示の時間なども徐々に延長され、希少性が減りつつも、日本社会への溶け込みを見せていた。


 パンダを見物するのは皇室などの貴賓も含まれている。1973年2月17日に、高松宮ご夫妻と秩父宮妃殿下がパンダを見学に来園。「妃殿下、ご夫妻ともたいへんお喜びの様子でした」とある(どうぶつと動物園 1973.4)。


 昭和天皇、皇后両陛下も同年1126日、上野動物園に来園し、「ジャイアントパンダ、ゴリラ、水族館などを興味深くご覧になり」(どうぶつと動物園 1974.1)とあったが、パンダを見学される写真だけが掲載された。



政治的なパンダの変遷


 1972年の贈呈が決まった当初の「パンダ」の政治的な意味は、1940年代の戦中から引き継いだように見える。第二次世界大戦の中でのパンダに関する報道が、政治、中華民国、戦争と強く関わっていた時代から、パンダのイメージは政府から作り出されたことが顕著な特徴となっていく。無論、中国が数ヶ月前にニクソンのアメリカにパンダを「友好」の印として贈呈したこともその政治的な意味に大きく影響しただろう。


 このアメリカにおける「パンダ」の意味は、まず受け入れの動物園に見られるだろう。1930年代に渡米したパンダはシカゴやニューヨークの動物園でブームを生んだが、今回のパンダは議論の後、首都のワシントンの動物園に決まった。

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