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尾木ママの 親だからできる「こころ」の子育て
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第2章 子どもの心を育てるために

『尾木ママの 親だからできる「こころ」の子育て』
[著]尾木直樹 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間28分
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スキンシップをしよう
チンパンジーもスキンシップで

 スキンシップが大切――。

 私たちは、何度この言葉を耳にしたことでしょうか。もう耳にタコができてしまっている人も多いかもしれませんね。

 実は、動物にとってもスキンシップは、親子の(きずな)や信頼を形成するのにきわめて重要な役割を担っているのです。人間の言葉を理解し、数字を記憶できるチンパンジーとしていまでは広く世界に知られているチンパンジーのアイちゃんの出産と子育てについて、五月五日のこどもの日にNHKテレビで紹介されたことがあります。

 私はこのアイちゃんの子育ての姿から、人間にとっても心が育つ過程でいかにコミュニケーションが大切かを教えられました。

 私が驚いたり、感心したことがいくつかあります。

 その一つは、子育ては生得的な本能の側面と後天的な学習成果の領域が複雑に重なっていることを知ったことです。

 アイちゃんは一歳のときに京都大学霊長類研究所にやってきて、他のチンパンジーの子育て風景を「見学」したことがないのです。そこで、二十四年間もアイちゃんにつき合ってきた京都大学教授の松沢哲郎さんは、アイちゃんが赤ちゃんを抱くことができないのではないかと本気で心配して、出産直前から、人形を使って抱き方を教えました。

 実際に出産してみると、案じた通りやっぱり抱っこは逆さまです。松沢さんはすぐに身をもって教えました。すると、アイちゃんはやっと正しく頭を上にして抱けるようになり、生まれたての赤ちゃんは二十時間以上も経ってからようやくお乳も飲めるようになりました。こうして、アユム君と名付けられたオスのチンパンジーの子どもはすくすくと育ったのです。
「子育ては、学習文化なんだ!」

 私は、一種の感動を覚えながら画面を見つめてつぶやいていました。

 二つめは、「新生児微笑」がチンパンジーにも見られることを知ったことです。人間の赤ちゃんが生後二、三ヵ月を過ぎると、口もとをニッと動かして「ほほえみ」を示すことを親ならだれしも体験します。

 そのほほえみを見せつけられると、思わずほっぺを突ついたり、抱きしめたい衝動に近い愛情が親の心の中心部に突き上げてきます。こうして、我が子への愛が親の方に確実に形成され始めるのです。

 赤ちゃんからすれば、自分に愛情をたっぷり注いでもらうための本能的な作戦なのでしょうか。自分がニコッとすると、親は喜んで抱きしめ、ほほえみ返し、話しかけてくれる。しっかりスキンシップしてくれる快感を積み重ねて体験する中で、一つの行動パターンとして学習し、習得していくようです。見事な学びっぷりです。

 三つめは、「高い、高い!」のスキンシップ(あやし行為)がチンパンジーにもあることを映像で見たときです。まったく人間の子どもと同じです。両手で高く持ち上げられると、赤ちゃんは大喜びするのです。母親もちょうど育児ストレスがたまる時期ですから、体を動かして我が子を「高い、高い!」することによって、ストレスの発散になるようです。どうもスキンシップは、大人から子どもへ一方的に愛を伝えるためだけの所作というわけではないようです。

 親にとっても、子どもの喜び様を目の当たりにすることによって、疲れていても心にムムッと元気が湧いてくるのです。こうして、親もまた子どもからたくさんの愛をもらっているのです。だからこそ、過酷な子育てにも耐えることができるのでしょう。

 ですから、スキンシップの仕方を知らなければ、子どもが愛情不足に陥るだけではありません。お母さんの方もほほえみをもらえなくて疲れてしまうのです。お母さんの心もふくよかに育っていかないのです。

 では、私たち人間の子育ての現状はどうなっているのでしょうか。最近のお母さんたちの子育て事情を眺めてみましょう。

エッ? 新生児に話しかけるの?

 保育園や幼稚園でお母さん方のお話をうかがうと、まだまだギョッとするようなエピソード(?)に事欠きません。

 北も北、北海道の最北端の宗谷にうかがったときの話です。

 先生たちを中心とする研究集会で「子どもの危機の実態と本質」について九十分ほどの講演をしました。終わったのは夕方ですが、東京への直行便にはもう間に合いません。そこで宿をとることになったのですが、せっかくの機会だからというので、夜、実行委員の先生たちと懇親会を持つことになりました。いわば飲み会です。

 参加者はほんの七、八名。中心になってがんばってこられた先生方が主でした。

 私の講演をネタに、子どもの変化や地域、親の大変さから、北海道の大自然の中での車通勤に伴う地吹雪の恐ろしさ、キタキツネと遭遇したエピソードなど、話は多方面に広がってノリノリです。

 ちょうど宴もたけなわになったころ、話題はいつしか家庭のこと、我が家の子育てのグチに移っていました。おいしい鍋料理の匂いが充満して、狭い部屋での盛り上がりは最高潮です。そんな折も折、私の左隣に座った三十代半ばの女性の先生が、こんな話を始めたのです。
「いえね、尾木先生、私は三十歳で初産だったんです。ちょうど隣のベッドの女性は、二十五歳なのに第二子の出産だったんです。二人とも無事に元気な赤ちゃんを産みました」
「新生児室で母乳を与えたり、おしめ交換のときのことなんですが、ギョッとしてしまったことがあって……」

 私はホロ酔い加減も手伝ってか、そうそうその若いお母さんがまたとんでもない赤ちゃんの扱い方をしたんでしょう、と心の中で彼女にあいづちを打っていました。

 ところが、です。

 逆だったのです。先生の口からは、思いもかけない事実が語られることになったのです。
「……ひょいと気がつくと、隣の女性ったら、おしめを替えながら赤ちゃんに話しかけているんですよ」

 私は、彼女の話をここまで聞かされても、彼女が何を言いたいのかサッパリわかりませんでした。鍋の熱気にかなり当てられ気味になっていた私は、カニとキュウリの酢の物に箸をつけていました。
「だって、生後間もない赤ちゃんですもの。話しかけたって聞こえるわけではなし、意味だってわからないじゃないですか。もうびっくり。でも、よく聞いてみると、そうやって赤ちゃんとお母さんのスキンシップをするんですってね」

 彼女の話をここまで聞いたところで、今度は私の方こそ腰を抜かさんばかりに驚いてしまったことは言うまでもありません。
「ウッソ〜! 先生、本気でそんなことにびっくりしたの? 本当に知らなかったんですか」

 やや詰問調で、私は思わずその先生の顔をまじまじと見つめて言いました。酔いも冷めんばかりの衝撃でした。
「だって、どこでも習わなかったんですもの」

 私の反応にびっくりしたのか、彼女は弁解に努めました。

「先生、もうアキちゃいました」

 北海道だけの話ではありません。今度は、長野県のある私立保育園の園長が、私にしみじみと報告してくれた話です。

 園長は、帰りのお迎えに来たお母さんが、一人で黙々と赤ちゃんのおしめを替えている姿を発見。近寄っていき、こうアドバイスしたそうです。
「○○ちゃんのお母さんね。おしめを替えるときは黙ってやるんじゃなくてね、『今日はお迎えに来るのが遅くなってごめんね。急いで帰りましょうね』なんて話しかけてスキンシップすることがいちばん大切なのよ」と。

 その後一ヵ月ほど経ったときのこと。

 このお母さん、園長先生の姿を見つけると、
「先生、私もうアキちゃいました」

 と言いました。園長は意味がよくわからず、その理由を尋ねました。すると彼女は次のように答えたというのです。
「だって、先生、毎日毎日『今日はお迎えが遅くなってごめんね。急いで帰りましょうね』なんて言ってるんですもの。飽きちゃいますよ」

 この彼女、実は夫婦ともに県立高校の数学教師なのです。


 二人の女性の先生の子育てエピソードからわかることは、いまやかつての子育て“常識”はほとんど吹き飛んでしまっているということです。そのお母さんの知性や教養とは無関係に、子育てにおけるスキンシップの重要性など何一つ理解されていないのです。生活の中での母と子の心のふれあい、肌のふれあいの大切さについて、まったく無頓着といっていいのです。

 スキンシップの大切さは、なにも乳幼児期だけではありません。

 口もとにうっすらと(ひげ)をはやし始めた男子中学生だって、心の奥底では肌のふれあいを求めているのです。もっとも、思春期の男の子ですから異性である母親は避けたがるのが普通です。父親や男性の先生、スポーツクラブの男性コーチなどとの取っ組み合いのじゃれっこや腕相撲などは、男の子にはときには必要なのです。

 茶髪でかっこつけて問題を起こしがちな子など、「ダメよ! ○○君、こっちへいらっしゃい!」などと美人の先生にグイッと手を握って引っぱられると、うれしそうに従ってしまうことも珍しくありません。このような母性的な肌のふれあいを叱咤(しつた)という形でさえ子どもたちは求めているのです。それだけ乳幼児期にスキンシップで受けとめる母親の愛情が不足していた証拠なのかもしれません。
「気持ち悪いよ。手を離してくれよ」

 などと女性の先生の手をふりほどこうとする子は、小さいころに母親のスキンシップをたっぷり受けて育ってきた子です。

 中学生でもこうなのです。ましてや小さな子はなおさらです。

 お母さんの胸にしっかり抱かれて、安心しておっぱいにしがみつく。お母さんの背中で揺られながら深い眠りにつく。お母さんが抱っこしながら大きな瞳を見開いて語りかけてくれる――こんな肌と肌のリアルなぬくもりと安心体験が多ければ多いほど、子どもの心は安定します。

 心が安定した子どもは健やかに育ち、他者への思いやりも豊かになります。自分の殻を破ってどんな困難にも挑戦できるパワーが、母親や父親に見つめてもらっている安心感の中から生まれてきます。

 私たち親は、スキンシップしているときの赤ちゃんの心地よさそうな表情をしっかりと自分の脳裏に刻みたいものです。

子どもが育つ前に親が自分を育てよう
お母さんが変われば子どもも変わる

 今の子どもたちは、自己中心的でワガママ、社会的モラルが欠如している、はたまた生活習慣がなっていない、ひきこもりがちでケータイメールやゲームばかり、コミュニケーション力にも欠ける――。

 現代の子どもや若者を批判するこれらの特性は、どれもたしかに当たっていると認めざるを得ません。

 しかし、いったい子どもたちにその責任はあるのでしょうか。

 私は、一つもないと思います。どれもこれもすべて大人社会の反映であり、大人の責任なのです。先にこの世に生まれ出て、社会を形成し、家庭を築き、地域に生活しているのは大人の方だからです。子どもたちは、時間的にも生活空間的にも、後からこの世の中に登場したにすぎません。

 さらに、子どもたちが自分の意思を十分に表現できなかったり、しないのをいいことに、私たちは子ども問題を「子どもの問題」としてあまりにも一方的に決めつけすぎです。その極めつけは、「奉仕活動」を義務化すれば「心」を育てられるだとか、「改正少年法」で罰則を厳しくしさえすれば凶悪事件が減るだろうとする考え方です。あるいは、「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない」(「教育改革国民会議」)などという表現の奥にも、子どもを単に攻めたてるだけの大人の一面性が垣間見られます。

 むろん、子どもたちの自己責任能力を育成することは私たち親の責任です。しかし、この課題にしても、そのためのプログラムを持ち、実践していく責任は私たち親にあります。子どもの側ではありません。

 例えば、最近の親たちは、近所付き合いが大の苦手です。九〇年代半ばには「公園デビュー」という言葉がはやったほどです。ある新聞投書欄には「近所付き合いが苦痛の種」と題する相談が寄せられていました。こんな内容です。


 大きな団地に暮らす二十代の主婦。家庭に不満はなく、子育ても楽しんでいますが、唯一の苦痛の種が近所付き合いなのです。

 同じ主婦仲間たちは、私が外出するたびに「どこへ行くの」と聞き、帰ってくれば「どこへ行っていたの」と尋ねてきます。しまいには、私の車がきょうはあったとかなかったとか、我が家の洗濯物が少ないとか、いろいろ干渉してくるのです。まるで江戸時代の関所のようですが、質問にいちいち答えるのは本当に疲れます。

 彼女らには他人の自由やスケジュールを尊重するという考えは見られず、私はここにいるのが嫌でたまりません。かといって、どこかへ引っ越すのは経済的にままなりません。何かいい案はないかと毎日悩んでいます。アドバイスをお願いします。


 このように親自身が深刻な問題を抱えているのです。ですから、子どもの責任だけを問い、子ども“対策”にどれだけ腐心したとしても、逆に子どもたちを追いつめるだけでしょう。かえって事態を悪化させかねません。

 では、私たち親の側の発達課題・問題点とはいったい何なのでしょうか。大きく三つに整理できるように思います。

 それは、第一には社会性の問題です。自分中心主義、ワガママと表現してもいいかもしれません。あるいは、モラルの欠如の問題です。

 第二には、家庭生活のあり方の問題です。生活の場としての家庭が、果たして規律ある活力あふれる場になり得ているのかという問題です。そこに親が“生活”しているのかどうかが問われるところです。第三には、地域生活の状態です。いったい、地域の一員としての実感が湧く生活を営めているのかどうかです。地域性が欠落した状況での子育てなど不可能だからです。

 これら三つの問題点を「子どもが育つ前に、まず親が育ちましょう」という視点でとらえてみましょう。“子育ては、親育ち”であることが浮き彫りになることでしょう。


 自己中心=“私事化”から脱出しよう

 ある日のこと。妻は一人で実家に帰っているし、子どもたちの朝食の準備の買い物にと近所のコンビニに出かけました。

 出かける、といってもすぐ目の前です。井の頭通り沿いにあります。この通りは、片側一車線ずつの狭い道路。そのわりに交通量が多く、すぐ近くの扶桑通りとの小さな交差点では、これまでに三人もの死亡事故が発生しています。

 コンビニには駐車場があるのに、入るのが面倒なのか、出車の際にわずらわしいのかは知りませんが、平気で路上に駐車する人が後を絶ちません。だから、交差点で左折する車にはそれらが障害物となって、気が散ったり見通しが悪くなるのです。事故多発の誘因にもなっているようです。

 ところが、その朝もコンビニ前の路上には四トントラックが止まっていました。
「ああ、迷惑駐車だな。どうしてあと数メートル走って左折して駐車スペースに止められないのか」。私はムッとし、怒りをかみしめて向こう側へ渡ろうと左右の車の流れが途切れるのを確認しながら待っていました。

 すると、私の立っている方の車線を走ってきた一台の乗用車。これが、なんとコンビニ前の路上の反対車線に止まったのです。中から女性が降りてきて、左右をキョロキョロと忙しそうに見やりながら店内へと吸い込まれていきました。さすがに運転手は車中で待機。見るとこれもまた三十代の女性です。

 たちまち両車線とも車で渋滞。私もなかなか反対側に移動する機会がつかめぬまま。仕方なく横断しやすい信号の方へ歩き始めました。

 こんな光景は、ここに引っ越してきて以来、“日常的”に見られます。車内に子どもを乗せたままで車を止めているケースも珍しくはありません。

 こんな危険極まりない“自己中心”主義は許せません。これでは、子どもの教育が成り立ちようがないのです。逆に、モラルの欠如した感性や心を養うことにつながりかねません。

 このような「危険」は伴わないものの、いま思い出してもムッとするような光景に出くわしたのは、スキー宿でのことです。

 我が家は毎年、ファミリーでスキーを楽しむのを恒例としています。おかげで二人の娘たちは、私の一級の滑りの技術を超えて楽しんでいます。
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