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「自信が持てない人」の心理学
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生き方・教養
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(1) あなたを苦しめてきたのはだれ?

『「自信が持てない人」の心理学』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


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 「立派なこと」が、自分を見失わせる

 

 私は自分の少年時代や二十代を振り返る時、自分を最も苦しめたのは、悪い人達ではなく、絶えず「立派なこと」をいう人達であったという気がする。

 私の身近には、口を開けば「立派なこと」をいう人がたくさんいた。正義、愛情、正直、教養、それらをさかんに口にした。

 そして、その人達に私は振り回され、こづき回され、自分を見失い、疲れ果てた。典型的な自意識過剰で、自己不在の人間となって、生きることに消耗していた。

 私の回りには、小さい頃から、抑圧の強い人がたくさんいたのである。つまり、心の底に不安を感じながら、自分が不安な人間であるということを認めない人達である。彼らは生きることを怖れていた。しかし、自分が怖れていることを認めることを拒んでいた。臆病でありながら、自分が臆病であることは決して認めなかった。

 自分が臆病であることを心の底で知りながら、それを認めることを拒否した大人ほど、子供に大胆で勇敢であることを求める。自分が利己主義者であるという事実を認めることを拒んだ人ほど、他人に対して厳しく利己主義を禁じる。

 かくて私は、自分の幼少年時代を精神的死をもって始めることになった。自分を見失い、生きることの無意味感に苦しみ、周囲への気疲れで生きた心地がしなかった。

 多くの自己喪失者は、多かれ少なかれ、実際の自分と違った人間になることを周囲から期待され、しかも非現実的なほど高い倫理を強制された人達ではないだろうか。

 他人に対する抑圧された憎悪による心の葛藤は、「立派なこと」を主張することによって、一時的に解決される。

 口を開けば「教養、教養」と騒ぐ人が、いかに心の底に周囲への憎しみを宿しているか。それは、その人達を観察すればわかることだろう。だからこそ、「あの人は教養がない」とそのような人達が他人を批判する時の眼は、憎しみに燃えているのである。

 自分の中にある感情だけれども、自分が認めたくないものがある。すると人は、その実際にある感情を意志の力で無意識の領域に追いやる。それを抑圧という。

 抑圧の強い人が「教養のない人」を罵倒するのは、憎しみにかられているからである。しかし、その憎しみは、罵倒する時、合理化される。

 抑圧が全般的に深化した人で、「立派なこと」をいう人は、世の中にはたくさんいる。われわれは、その立派な話の内容に反論できず、その人達に支配されてしまうことがある。しかし、抑圧の強い人は「立派なこと」をいうが、その動機は周囲への憎悪であったり、劣等感であったりするのである。

 

 「……べき」という人が隠したいものはなにか

 

 憎しみにかられて、「教養」とか「……べき」という規範を叫ぶ人ほど無教養な人はいないのである。ところが、「あの人は教養がない!」と断言する時、その人は、自分は教養がある、とその瞬間は確信できる。

 良心、教養、愛情……これらの「立派なこと」を声高に主張し、「お前には、それでも良心があるのか!」と他人を罵倒する人は、そのように罵倒することで、自分のうちに隠された憎しみを少しでも解消しようとしているのである。

 もちろん、その人は、自分が憎しみにかられてそのように「立派なこと」を主張しているとは思っていない。自分こそ「良心の人」「教養の人」「愛情の人」と確信している。しかし確信している主体が空洞化しているので、他人に自分の確信を保証してもらう必要がある。そこで、それらの「良心の人」「教養の人」「愛情の人」は、同じ種類の人、つまり抑圧の強い人と一緒になって、他人を非難し始めるのである。

 家族が一団となって、そのような集団を形成していることもあるし、宗教などで狂信的な集団を形成する時もある。「お前は愛情がない!」と相手にむかって絶叫しつつ相手を罵倒する人ほど「愛情のない」人はいないであろう。

 そのようなコンプレックスを共有した家庭からは精神障害者が出るし、狂信的な宗教集団からはさまざまな悲劇が生まれる。このような集団にあっては、すべて現実は歪曲して受けとられる。

 心に不安や憎しみを抑圧しながら、「立派なこと」をいう人達に囲まれて生きてきた私に、わかったことがある。

 それは、人の話を聞く時、その内容にばかり気をとられてはいけないということである。「なぜそのようなことをいうのか」という話す人の隠れたる動機に眼をむける必要がある、ということである。
「立派なこと」をいう人の「隠れたる真の動機」に注目することができないで、病んでいった人は多い。

 私がラジオでやっている「テレフォン人生相談」に、ある人が電話してきた。五十歳の父親である。彼は「子供が小さい頃から道徳はきちんと教えました」という。よく聞いてみると、まさに、これでもか、これでもかという「べき」論なのである。そして、その子供達は犯罪に走ってしまい、奥さんは逃げ出してしまった。

 五十歳になる父親は、なぜこうなってしまったのかわからない。彼が妻子にむかって「立派なこと」を叫んだことの「隠れたる真の動機」に、父親は気づいていない。気づいていないけれども、周囲はたまらなかったのであろう。愛を主張した父親の「隠れたる真の動機」は憎しみだったのである。教養を説いたその人の「隠れたる真の動機」は劣等感だったのである。

 自分の主張しようとすることの内容の立派さに酔って、自分の「隠れたる真の動機」に気づいていない人は多い。

 この父親は、自分では子供の道徳的しつけについてはことさら注意を払ってきたのに、となげくが、実は子供のあら探しをして、それを見つけると、なじることで自分の心の中のうっぷんをはらしてきたのであろう。

 自分の人格にしみこんだ憎しみ、恨みに、この父親は気づこうとせず、他人を追及することに、その発散を求めていたのである。その結果、ついに奥さんにも逃げられてしまったのである。

 ところで、相手があまりに「立派なこと」をいうので、反論できずに、ついつい不本意ながら相手に引きずられてしまうということがある、と前にもいった。そんな時、相手の主張する内容に反論しようとしても無理である。それよりも、「あなたは、その立派なことを主張することによって、いったいあなたの中の何を自分と他人に隠そうとしているのですか?」と質問することである。

 

   自分を最も苦しめたのは

   悪い人達ではなく、

   「立派なこと」をいう人達

   であった。

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