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言葉のおしゃれ
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生き方・教養
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解 説

『言葉のおしゃれ』
[著]楠本憲吉 [発行]PHP研究所


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金田一春彦 



 この本は、日本語の美しさをたたえた本である。

 著者は、まず日本は季節の変化がはっきりしている、その季節の変化に応じる自然の美しさに注目し、それを表わす日本語の単語を拾い出す。
「青葉・若葉」――日本人にとって何でもない言葉であるが、こういう言葉はほかの国語にはちょっとないのではないか。「青葉」を英語で言おうとすれば、green leavesであろうが、green leavesでは、日本語にした場合、「緑の葉」だ。
「青葉」と「緑の葉」とはちがう。秋、山の林の木の葉が赤く黄色く色付く。木の種類によって緑色のままの葉もまじっている。あれは「緑の葉」だ。あれは「青葉」とは言わない。「青葉」は「若葉」と対にして用いられ、それは五月六月ごろの生気満ち/\た山野の木々の茂りをさして言う。日本は木が多く、木々の種類がまた豊富であるから、新しい葉の色も少しずつちがい、濃緑、淡緑、映じあって、初夏の太陽に輝いている。木の間を吹きぬける風はすが/\しい。梢には小鳥がさえずり、遠くからは滝の音も聞えてくる。そのような連想を呼んで使われる語彙が、日本語の「青葉」であるが、日本語の辞書を引くと、このような単語がいくらでも見つかる。「あ」の部のはじめのところを読んで行っても「青嵐」「青田」「秋風」「秋晴」「朝露」……といった語が勢揃いしている。

 著者の得意とする俳句は、日本語のこのような性質を活用し、季節を表わす単語を巧妙に使い分ける。「蛙」や「水鳥」のような、本来季節のないはずの言葉も、もっとも美しい連想を呼びそうな季節に所属させられている。たとえば「水鳥」は冬のことばだ。


  水鳥や舟に菜洗ふ女あり  蕪村


 この句は「水鳥」が冬を表わすという約束のもとに作られている。蕭条たるあたりの冬枯れの茶色、それを受けて緑色鮮やかな菜と、紅いものをちょっと身につけた若い女の姿が浮き立って見える。この著書を読んでみると、著者は現代の歳時記が規定する季語には必ずしも賛成していないようだ。たしかに変えた方がいいものがある。「牡丹」は夏の季題だそうだが、現実には「牡丹」は藤や山吹と同じころ咲き、晩春の花園を色どる王者である。これは春の季題と改めた方がいい。また「鳩」は季語とされていないが、お寺のドバトはともかく、野生の鳩が鳴き出すのは春である。鳩のものうい声は春の日永にぴったりだ。鳩は春の季語としたい。まだ/\日本語は美しくなる豊かな可能性を秘めている。

 著者は日本語の美しさを語るのに、次に敬語表現をもってする。敬語の精神は相手に対するやさしい心遣いから発する。著者が敬語を美しいとするのは、その精神を賞するからであろう。自分の品位をつくろうために敬語を使うのは虚栄であって、それは邪道である。

 元来、日本人は心のやさしい民族である。日本の女性は、男性に食事に招かれ、「何を?」と問われると、「何でも」と答えるのが常であった。近ごろの外国かぶれの人は、それに対して自主性がないなどと言い、堂々と好きなものを言えばいいと言う。もし、相手が自分に親しい、夫とか親しい友だちとかの場合は相手のことがわかっているから、日本の女性も好きなものを注文する。しかし、相手が初対面の男性の場合、日本の女性はその男性の気持をはかりかねる。どのくらいのものを御馳走してくれるつもりかしら。高いものかやすいものか。もし高いものを求めてこの人を困らしてはいけない。しかし安すぎたものを言うのもこの人をがっかりさせるかもしれない。そこで「何でも」となるのである。この時、日本の女性は相手が御馳走してくれるものに何でもおいしく食べてあげようというやさしい気持になっているのである。

 アメリカに渡って住んだ人が向こうのお手伝いさんを傭った。お茶碗をこわす。と、お手伝いさんは、「お茶碗がこわれました」と言うのだそうである。日本人だったらどう言うか。「お茶碗をこわしました」と言うだろう。勿論その人が茶碗をほうり投げてぶっ欠いたわけではない。しかし、日本人はお茶碗がこわれたのは自分の不注意によるものだと思う。もし自分が注意していたらお茶碗は壊れなかったかもしれない、と考えて茶碗が壊れたのを自分の責任にして、「お茶碗をこわしました」と言うのである。むこうの人にはそういう発想は全然ないのであろう。うっかり茶碗が壊れたことを自分のあやまちにされて罰を受けては損をする。そんな考えから、「お茶碗がこわれました」と言うのであろうが、しかし、日本で「お茶碗を壊しました」と言われて、不愉快に感じる人はいない。そう言われては、相手は無闇に怒ることはできない。「今度から気をつけてね」ぐらいで終る。日本人は相手の気持ちを忖度しつつ生活をしている。それが現れるのが敬語である。

 敬語を決して封建思想だなどと言って目の敵にしてはいけない。もっとも簡単な、「八百屋さん」「魚屋さん」の「さん」という接尾語。あれでも非常に有難いものだ。日本人は遠くから「駅長さーん」と呼んで相手に不快感を与えず、大勢いる人のうちから駅長だけに呼びかけることができる。アメリカではStation master!と言ったのではやはり失礼にあたるのだそうだ。英語ではこういう場合、Helloと言うか、I sayと言うかしなければならないそうだが、それでは大勢の中で駅長だけを呼び出すことはできない。能率の悪いことである。敬語のあることがいかに能率をよくしていることか。

 著者はもう一つ日本語を美しくしているものとして、女性語の存在を数えている。著者はこの本の「ことばの森」という章で、日本語の歴史を説いているが、その第五節、第六節に、「忌みことば」と「女房ことば」を特に立てている。今、国語学者が日本語の歴史を書く場合には、動詞の活用の種類が増えたとか減ったとか、活用形の変化の形式がどう変わったとか、そういうことが主な記述の対象であるが、この著者にはこういうことよりも、女性語の発生を重んじていることからもその好みが伺われる。

 もと/\女性語は、対象をはっきりささないことから発生する。女房ことばでは「帯」を「おもじ」と言う。「『お』のつくことば」という意味だ。もと/\『お』のつくことばはたくさんある。その中から特に「帯」をさすとは随分不親切な言い方であるが、日本人は勘をたっとぶ民族である。それでちゃんとこの人の意味しているのは「帯」だと理解したのだ。日本の女性は相手が好きな男性でも口では「あなたなんか嫌いよ」と言った。悲観してはいけない。「好きだ」という意味をそのように表現しているのだということを知らなければいけない。
「うなぎ」をただ「う」と言い、「さつまいも」を「おさつ」と言う。こういう言い換えの対象になるものは、食べ物が多い。女性は食べ物のことを口にするのをはしたないと思った。しかし、時には口にせざるを得ない。そこでこのようなその名をはっきり言わないという発明をした。これならば、口を動かしているような実感は薄くなる。時には「お菓子」や「おそば」のような「お」だけつけたものもある。これはいわば食品にセロファンをかけ、なま/\しさを隠したものだ。

 著者はこの本の最初の方に現今の女性の服装が露出にかたむいていることを戒めている。同感である。女体は包み隠してこそ美しさが引き立つ。女性のことばもまったくそのとおりで、肉体のことなどはっきり言わないのがよい。「腹」を「おなか」というのは実に見事な発明だ。「ひだるい」「ひもじい」と言えば、英語のhungryに相当する表現であったが、それを「おなかがすく」とは何という文学的な美しい表現であろう。

 著者はこの著書のいたるところで日本語の美しさを讃えているが、同時にその美しさが損われてゆくのを悲しみ惜しんでいる。日本の季節がめちゃくちゃになって季節感がなくなることに、敬語の使い方が出たら目になって、相手に対する気配りが感じられなくなることに、女性が男性と同じような言葉を使い、本来のしとやかさを失うことに警告を発している。標題の「言葉のおしゃれ」とは、そういう日本語の美しさを知り、美しい日本語の使い方を身につけることだ。それは著者が言う通り、女性が八頭身になろうとして、美容体操に精を出すことよりもはるかに大切なことである。


 昭和六十年五月(国語学者)



この作品は昭和四十九年六月、PHP研究所より発刊された。
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