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(2021/11/26 追記)

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ことばのセンス
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生き方・教養
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風花が舞っています

『ことばのセンス』
[著]楠本憲吉 [発行]PHP研究所


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 人は誰でも、お喋り上手になりたい、うまく話せるようになりたい、と思っている。


 しかし、立て板に水、カンナ屑に火……といった調子でペラペラまくしたてられないとしても、それほど気に病むことはないのではあるまいか。いつでも、誰とでも、うまいお喋りができれば、それはもうプロの世界だ。その道の師匠について何年も修業を重ねたあげくの果てのお喋りであって、いわばゼニが関わってくるお喋りである。こうなると、もはやアマの出る幕ではない。


 所詮、アマはアマ――、何もそこまでやる必要はない。やる必要はないが、アマにはアマのお喋りの仕方、言葉の使い方というものが、当然のことながらあるはずである。


 一体、人間関係というのは、お喋りにはじまって、お喋りに終わる、といってもいい。このお喋りは、いうまでもなく言葉あってのそれなのだが、たいていの人は言葉の重要さについて一向に無頓着で、ただペラペラやることがお喋り上手だと思い込んでいる。これは大いなる錯覚だ。


 「丸い卵も切りようで四角、ものもいいようで角が立つ」という譬えがあるが、お喋りというのは、言葉の使い方、表現の仕方一つで、自分を善人にも悪人にも仕立て上げることができるし、相手を喜ばせたり、絶望させたり、ふるい立たせたりすることもできるものである。その昔、言葉は「(こと)(だま)」といって、その言葉の持つ神秘な力を(おそ)れる風習があったが、こうした言葉の威力は現在も決して失われていないようだ。


 言葉というのは決してモラルではない。言葉自体にいい悪いの責任は全くないのである。言葉はエチケットだ。その人のTPOをわきまえた使い方、表現の仕方によって、よくも悪くもなるのである。


 そういう意味で、言葉は「文化」であり、「人格」であるといってもいい。従って、その言葉によって成り立つお喋りは、あえていうなら、その人の内に息づく「文化の公表」であり、「人格の公開」でもあるといえよう。


 この世の中には「われこそはお喋りが大の得意」と自認している人が結構いるものである。そういう人のお喋りは、確かになめらかで、次から次へとまくし立て、相手をうっとりさせて、本人もまたエツに入っている。ところが、あとになって、その人のお喋りの要点が何だったのか、さっぱり思い出せないことがある。ときとして、そういうお喋り得意がいるのである。


 しかし、「お喋り得意」と「お喋り上手」は違うのではあるまいか。あれほど流暢にまくし立てたにもかかわらず、なぜ、その要点を相手が覚えていないのかというと、これには三つの原因が考えられよう。


 第一に自分を正しく表現する言葉使いをしていなかったこと、次に相手に正しく理解される言葉使いをしていなかったこと、そして相手を()きつける言葉の選択をおろそかにしていたこと……このために、喋りまくった割には「ピンボケ話」になってしまったわけだ。


 お喋りは、何も流暢である必要はない。口下手で結構、訥々とした口調で大いによろしい。ただ相手にわかりやすく、しかも相手が気楽に感じるように話すことが条件で、これが本当のお喋り上手というものである。


 上手なお喋りの仕方というものは、人に教えられて覚えるものではない。つまり、お喋りは理屈ではないのである。踊りや芝居の演技と同じように、体で覚えるものだ。自ら苦労を重ね、体をはって、そのことに集中力を凝らしていると、考えてもみなかった言葉が見つかったりもする。たとえば「青い」といわなくても「空の青さ」を伝えられる言葉が発見できることも往々にしてある。センスあふれるお喋り、言葉使いというのは、感覚よりも感受性の問題なのである。


 お喋りについて、まことに価値ある一文を残している良寛は、「お喋りの基本は愛語」だとして、次のように教えてくれる。


 「むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり。ただ能を賞するのみにあらず」


 要するに「ただペラペラと喋りまくるばかりが能ではない」と良寛はいっているわけだ。良寛がここで「愛語は愛心よりおこる」といっている「愛心」とは、恋人同士や新婚夫婦の浮わついたそれとは違って、相手のためを思う心であろう。つまり、相手への思いやり、他人への愛ということである。


 さらに良寛は、愛語の妨げになるものとして、「口数の多いこと、早口、問わず語り、さしで口、人がものをいっている最中にものをいう、自分でもよくわかっていないことを人にいう、外国語を盛んに使う、学者くさい話をする、風雅くさい話をする、ふざけ過ぎる」などなど、実に九十項目に及ぶ戒語をあげ、「言葉は惜しみ惜しみ使うべし」といっている。その人らしい言葉を選び、それを並べて、「この場合は、こんな言葉使いでいいのかな」と、手垢のついてない言葉を使うことに努力すること――良寛のいう「惜しみ惜しみ使うべし」というのは、すなわち、こんな言葉使いをせよ、ということであろう。


 良寛のいう「愛語」とは、きわめて現実的ないい方をすれば「正しい言葉使い」ということである。


 だからといって、


 「湖がきれいですね」


 「はあ、HOでございますか」


 では、皮肉とかいやみとかを通り越して愚かだ。水がHOなのは確かに正しい言葉だが、正しい言葉が必ずしも正しい言葉使いということではない。


 たとえば「さようなら」という場合でも「さようなら、気をつけてね」と一言つけ加えれば、しみじみとした人格を感じさせ、ひいては家柄にまで思いをはせらせることができる表現となる。良寛のいう「愛話」、すなわち「正しい言葉使い」とは、このようにちょっとした心づかい、相手への思いやりから生じるものなのである。


 以前、パンタロン姿の、いかにも活発そうなお嬢さんから、


 「窓の外に風花が舞っていますわ」


 といわれて、少なからず感動を覚えたことがあった。「風花」というのは青天にちらつく雪のこと――。優雅な印象を人に与えるボキャブラリーである。


 これぞまさしく良寛のいう「愛語」、ひいては「正しい言葉使い」というものだ。そのためには、何よりも言葉の数をたくさん知っていることであり、それを自分の言葉として用いることである。言葉の乏しさ、ボキャブラリーの貧しさ、さらに生のままでの言葉の内在は、決していい言葉を生むことがない。


 ところで、この頃は何とも奇妙な言葉がはやっている。


 「あ、どうも」


 これである。「こんにちは」「しばらくです」「ありがとう」「ごめんなさい」「さようなら」etc……何でもかんでも「あ、どうも」だ。実に誠意のない言葉使いである。


 「あ、どうも」で、一切、片をつけてしまう連中を俗に「どうも族」というが、これが若い女の子の「どうも族」となると、さらに加えて不可解な言葉使いが大流行となる。


 たとえば何か情報でも提供しようものなら、


 「あら、ホント?」


 とくる。そこで、


 「本当だよ」


 というと、


 「噓でしょ?」


 と追い打ちをかけてくる。


 「噓じゃないよ。君に噓をついてもしようがないじゃないか」


 「信じられない……」


 「そんなに信じられないなら、君が直接行って確かめてごらん」


 「ホントニィ?」


 「本当に本当だよ」


 「すごーい!」


 こういうのはまことに無礼である。大の男が五十づら下げて小娘相手に噓をついてもしようがないではないか。にもかかわらず、はじめからこちらをホラ吹きのかつぎ屋だと決めてかかっている。彼女達からすれば、「ホント」は「本当」とは異質な言葉で、「信じられないほど、すてきな話」といった程度のことを、こういうらしいのだが、それにしても、「どうも族」と「ホント族」には困ったものだ。この画一的かつ没個性的な言葉使い、もののいい方を知らない言葉使いは、聞いていて実に不愉快きわまりない。


 私は、「ありがとう」「どうぞ」「ごめんなさい」――この三つの言葉がきちんと、しかも自然にいえるかどうかが、お喋りの基本であり、正しい言葉使いの原点だと思っている。つまり、この三つの言葉こそ、人が社会生活をしていく上で、最も多く使い、最も他人の心に関わる言葉だからである。良寛のいう「愛語」「愛心」の精神もここに通じるものだ。アメリカでは、この三つの言葉を人間教育の根本にしているともいわれている。


 さらに私は、言葉のTPOという観点から、自分をどう表現するか、ということも、お喋りの基本に加えたい。「わたくし」「わたし」「僕」「俺」「あたし」……と自称の言葉はいろいろあるが、お喋りの中で、この第一人称はかなり多く使う言葉であるだけに、これをどういうかによって、あとに続く言葉使いがおのずと変わってくるからだ。たとえば「わたくし」と切り出して「腹減った」とか「おふくろが会いたいといっている」とは続かない。自然と「お腹が空きました」、「母がお目にかかりたいと申しております」となるはずである。


 いずれにしても、センスあふれるお喋りをするためには、何よりもまず「人様の話をよく聞く」ことである。「話三分に聞き七分」あるいは「話し上手は聞き上手」と昔の人は教えているが、とにかく心をむなしくして、ひたすら人様の話を素直に聞く……。お喋りの最中に相手の話をじっくりと聞くことができるのは心にゆとりのある証拠なのだが、このゆとりがお喋り上手にしてくれるのであり、感受性豊かな言葉使いを生んでくれるのである。


 そして、もう一つ――、言論の自由とは、いいたい放題をいう、ということでは決してない。いうべきことをテキパキということである。このことも肝に銘じておくべきであろう。


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