1
ひとつの作品あるいは一冊の本ができあがるまでには、作者の頭の中には、さまざまな想念が渦を巻く。
想念は、あらわれては消え、消えては燃えあがる。いわゆる芸術的燃焼あるいは

酵という現象である。それを何回か何十回か、くりかえしているうちに、想念は次第に具体的な形をとりはじめる。そして、ある日、それは、パッと鮮明な形をとる。作品の誕生である。
この本の場合はどうか。
2
昭和三十七年、私は、朝日新聞の学芸部長をしていた。朝日新聞は、昭和三十八年には大阪朝日が創刊満八十五年、東京朝日が七十五周年を迎えることになっていた。それを記念して、日本を代表する画家に、お祝いの絵を描いてもらおうではないかということになった。協議の結果、東山魁夷画伯ということになった。やがて、何日かして絵が届けられた。私はアッと息をのんだ。
亭々たる大樹が、家来の木々どもを従えて、そびえ立っている。しかも、それは今後も末長くそびえつづけるであろう。まことに記念号にふさわしい画であった。昭和三十八年一月元旦号の朝日新聞第三部のフロントページを飾った“千年樹”である。
この感銘は、ずっと私の心に沈みつづけていた。それは、何か男の理想をあらわしているように思われた。想念は浮んでは消え、消えては浮んだ。
昭和四十三年、私は朝日を退社した。
朝日人の間には“朝日を辞めると風邪をひく”というジンクスがある。朝日という会社はヌルマ湯なのである。大会社大新聞の社員は、概していえば、中小企業の人たちとちがってオンバ日傘育ちである。外の風には弱い。私も、ご多分にもれなかった。私は必死だった。たのまれた仕事は何でもひきうけようと決心し、事実、実行した。私は、幸いにも友人にめぐまれていた。危機的状況は、短期間で切りあげられた。
そのころ、いま評論界の第一人者になっている森本哲郎氏が、朝日に『百人のタレント』という続きものをやっていた。ある日、久しぶりで会談をした。氏は私と学芸部時代の同僚である。談、たまたま、『百人のタレント』のことに及んだ。すると、氏は、彼等の共通項として
「みんな、何かしら劣等感を持っているんですね。学校を出ていない、家が貧しかった、親がいなかった等……それは、さまざまなんですが、彼らは、それをバネにして、世間におどり出してきている。“劣等感をバネにして”なんです」
このことばもまた、私の胸にジーンときた。私もまさしく社会人としてはオンバ日傘の劣等感をしみじみ感じていたころだった。このことばも、また、私の胸に深く沈んだ。“千年樹”と“劣等感をバネにして”の、この二つは、その後も、私の胸に燃えあがっては消え、消えては燃えあがった。
去年の、たぶん、二月十五日だったと思う。山中温泉で開かれたブリヂストンの販売大会に講演をたのまれて、私は小松行きの飛行機の中にいた。前日から、猛烈な下痢をし、私は絶食していた。しかし、約束は約束である。弱った身体に鞭うって、私は機上の人となった。頭が妙に冴えかえっていた。
「千年樹」と「劣等感をバネにして」の結び目がその時、ピカピカピカとまたたいた。私が週刊朝日の編集長時代につくったトップ記事『美空ひばり―ある流行歌手の物語』(角田秀雄記者)である。昭和二十六年十月二十八日号の週刊朝日には、つぎのような記事がのっている。
――ひばり十一歳の時である。今や“流行歌手”のこの少女は全国を巡業している。高知県大杉村という日本一の大きな杉の木のある部落へ行った時、バスが転覆して、ひばりは大怪我をした。九死に一生を得たこの子は、怪我が治った時、日本一の杉の木の前でこうお祈りをした。
「杉の木さん、杉の木さん、あなたは日本一の杉の木でしょ。わたしもいのちが助かったから、きょうから一生けんめい勉強しますから、日本一の歌手にしてください……」
ひばりのその後については、私が説明するまでもない。この記事の終りの方には、またこういうエピソードも綴られている。
ひばり、小学校六年の時である。巡業と映画の撮影とで学校は長期欠席である。三分の一ぐらいしか出ていない。学校では、それでは卒業はさせるわけにはいかぬという。京都で、長距離電話でこの話を聞いて、ひばりは泣き出した。すぐ学校へ行きたいという。しかし、ここで中止されると撮影所は千五百万円の損失となる。昭和二十五、六年ころの千五百万円である。結局、補習授業をうけることで話がついた。
卒業式の終ったまったく人気のない学校の教室で、二人の女の子が机を並べて補習授業をうけている。一人は美しい洋服に新しいクツをはいたひばりであり、一人はみすぼらしいつぎはぎの服装の子である。家が貧しいため、遠くに子守にやらされて、やっぱり出席日数の足りない同級の女の子。二人を見守る若い先生の表情は複雑だった……
子守にやらされた子は、もちろん不幸である。しかし、この美しく着飾り、泣き顔をしながらも補習をうけねばならぬひばりは、はたして幸福なのだろうか。
――と角田記者は結んでいる。
三つのことが、ピカピカピカと私の頭の中にまたたき、火花を散らして融合した。杉の木とあすなろ(翌檜)のちがいがあるにしても、ここには劣等感をバネにした“あすなろ物語”がある。
3
いきさつがそんな事だったので、装画は東山画伯におねがいし表紙の絵となった。ただし、朝日の『千年樹』とは、すこしちがっているが、これもまた千年樹の一つである。
主題がきまり、方向が定まると、あとは、スラスラと事は運び、本書は、こうして生れた。「続」としたのは前著に『

=現代ビジネス金言集』(PHP研究所)並びに『

=新・ビジネス金言集』(青葉出版社)があり、それをうけたものであるが、全篇を貫いているものは、“あすなろ物語”である。
本書ができあがるまで、まず東山画伯に、つづいて、取材その他変らぬ協力をしてくだすったPHP研究所出版部の森井道弘、小川充の両氏に、記してお礼の意をあらわしたい。
著 者
昭和五十六年一月
武蔵野の一隔にて