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志賀直哉氏の名作『暗夜行路』の一節にこういうところがある。主人公の時任謙作が、三つか四つのころである。屋根の上にあがって遊んでいた。遠く青い空が見える。そのうち、何やら下の方が、もの騒がしくなってきた。見ると女中や書生さんたちがこちらを見あげて口々に叫んでいる。謙作は、急にこわくなってきた。
見あげる顔の中に、母親の顔があった。その顔色は青白く冴えかえって、目がつりあがっている。かすれたような声で、母が静かに呼びかけてきた。
「謙作や、お前はお利口さんだから、ね、お母さんのいうことをよく聞いて……いいね。