正月の新聞から(一月)
七草が過ぎると、市民生活は、ほんらいの軌道をとり戻す。政治が動き、経済が回り、生活の鼓動が規則正しく脈うちはじめる。
暮れから正月にかけ、毎日、何紙かの新聞を読みくらしながら“言識”ということが、しきりに思いかえされてきた。この言葉は、明治二十九年、一代のジャーナリスト池辺三山(論説主幹)が、朝日新聞に入社した時、述べた。
「吾人の言論、もし尋常普通の農産物、工業品に比せられるを得ば、則ち幸甚に堪へず」。
というあいさつの中にでてくる。いう意味は、新聞記者が言論につとめるのは、農民が田を耕し、商人が物を売るのと何ら変りはないということである。そこから、新聞の言論は、わかりやすく、ミのあることが要求されてくる。“浴衣がけの社説”といわれる各紙のコラムには、この精神が脈うっている。
たとえば、ロシヤの作家チェーホフがゴーリキイにあてた「まず最初に、新年おめでとう。心からご幸福を祈ります。――古い幸福か、新しい幸福か――それはお気持のままです」にはじまり、「ウグイスが大きな木の上で歌おうが、小さな茂みの中で歌おうが、同じウグイスじゃありませんか」で結んだ1月5日付『余録』(毎日)は、新聞社が、読者に贈った賀状ともいえるだろう。
また、たとえば、宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』をパロディ化した「……住居ハウサギ小屋ト呼バレルヨウナ狭イトコロダガ、ソノ中ニ引キコモッテハイナイ。南ニ飢エト病気ニ苦シム子供タチガイルト聞ケバ、何ヲオイテモ飛ンデイッテ食事ヲサセ、看病スル……アノ国ノ言ウコトナラ信用シテモイイト皆ガオモウ。ソウイウ国ニ、日本ヲシタイ」(1月1日・読売『編集手帳』)などは、新宿のヒッピイ族にも理解されるであろう。しかも、何かホノボノとしたムードを漂わしている。
コラムが“浴衣がけの社説”であるならば、これに対し、社説は、“帝王の師”(福沢諭吉)といわれている。その所論は、あすの政治に、すぐにも役立つものであれという事であろう。ところが、往々にして新聞社の社説が煮えきらないといわれるのは、漠然たる「社の立場」の下に、方針が明確でなく、無署名で書かれているところにあるのではなかろうか。その意味で“客員コラムニスト”草柳大蔵氏による「やさしさに満ちたフォークソング予算」(54年12月30日・サンケイ)は、年末年始を通じて、もっとも光った言論であった。
第一に、所論きわめて明快である。これなら、八ッさんや熊さんでもわかる。予算案の批判というと、数字がやたらと出てくるが、ここでは、必要な数字が、最小限にしか使われていない。
予算案の批判には、数字の論議もあろうが、大切なことは、数字にこめられた思想であり、現代との対決の仕方である。草柳氏によれば、今年のそれは「やさしさに満ちてはいるが、したたかさに欠けている」フォークソング型だという。
第二、「したたかさ」とは何か。一言でいえば「一利を興すは一害を除くに如かず」(元の宰相・耶律楚材)という方針である。それは「ノーモア・ノーレス」(不増不減)だが、今年の予算にはその考えがない。
第三、そもそも「守るに価する国とは何か?」という古くして新しい問題の問い直し。
客員コラムニストは、いわば、野ブドウである。「良質のブドウ酒は、野ブドウとのかけ合わせから生れる」という諺は検討されていいのじゃあるまいか。
最後に「日本列島5億年」(55年1月1日・朝日)は、楽しかった。正月には、こういう大人のロマンも欲しい。
突っ込んだソ連の解説を(二月)
いささか物騒な話だが、北海道の根室では、こんな冗談が行われているという。
「ソ連が来たら、町に残って死ぬのは警察署長に海上保安部長、市長、支庁長、それに航空分遣隊の隊長だ。あとはみんな逃げる」(1月29日・サンケイ=「他人ごとでないアフガン」)。
この現地ルポは、ソ連軍の影におびえる北海道の幾つかの表情を伝えている。
旭川の人たちは、正月以来、いつものように「おめでとう」とあいさつをかわしているが、七割ぐらいの人たちは不安気である。また中学二年、小学校四年の二人の娘を持つある主婦は、テレビで、ソ連のアフガン侵入をみ、娘たちから
「お母さん、どこか外国へ行こう。ソ連の攻めて来ないところへ移ろうよ」
といわれて、返答に困った。
漁業関係者にとっては、一層複雑微妙である。稚内では日ソ友好会館が建設中であるが、その費用はソ連から四、五千万円程度、市からほぼ同額、それに水産工場、工場作業員はいくらという風に金を出し、その寄付者名簿はソ連側に提出した。