ある日、研究室のコンパで、ドイツから帰ってきた大学院生がこんなことをいう。
「先生、ドイツの大人は本当に元気ですよ。週末には、若い男女を招いて庭でバーベキューをしたり、アルスター湖でヨットを楽しんだり、まったく生き生きしてますよ」
するともう一人の学生が間髪を入れずに言葉を加える。
「それに比べて、日本の大人たちは本当に疲れてますね。ドイツの大人が週末になると、一週間の憂さを一気に晴らそうと意気込むのですが、日本の大人は一週間に蓄積した疲労を解消しようとごろ寝ですよ。ぼくらは、こうはなりたくないですよ」と。
たしかに、日本の男たちは疲れているようだ。低成長時代の激しい企業間競争の中で、過度の労働を強いられている中高年。それと歩調を合わせるように、傷つきやすく働きたくない男たちの増加。会社にも家にも居場所がない男。恋愛やセックスに関心のない男。何よりも残念なことは、彼らにはからだ全体から発する野性のオーラが感じられないことだ。
なるほど、いまの日本には長い間停滞した経済状態に同調するかのように、活力のない男たちが満ちあふれている。そのくせ、このような男たちは、「いまどきの若い者はなってない」と口癖のように若者をなじる。「自分たちは不況の中で苦労して働いているのに、このごろの若者は何だ。定職ももたず、わけのわからないことをやっているフリーター、電車の中で化粧をする若い女、優先席にでんと座り込んで、前に立つ老人をまったく気にすることもなく平気でマンガを読んでいる奴……」と。若者が大人の鏡であることも忘れて、若者のあら探しに明け暮れる。
このような寂しい男たちに比べると、中高年の女性たちははるかに活発だ。週末は夫も家にいることだし、少しはおしとやかにしていよう。だが、月曜日ともなれば、人が変わったようにエネルギッシュな活動家になる。びっしり詰まったスケジュール。山歩き、カルチャー講座、スポーツクラブ、博物館、ボランティア活動というように。夫の出張ともなれば、黙って一泊の温泉旅行もやってのける。
若者も働き盛りの男たちも頼りにならないということになれば、おれたちがやらざるをえない。こういって立ち上がった一群の熟年者たち――これが「超老人」だ。ただし、ここでいう「超」は、年齢が高いことだけを意味するものではない。超老人の特徴をひと言でいえば「若者の野性と大人の気品」を備えた高齢者ということになる。
野性というと、粗野で凶暴なものと思いがちであるがそうではない。それは、野生動物たちがお互いの種族の中では決して意味のない殺し合いなどしないこと、そして、異なる種族の動物たちは、それぞれの特性に合わせて環境を選びながら共生していることを見ればうなずけるだろう。
本来、野性とは、たくましさの象徴であると同時に、慎み深く、優しく、思いやりに満ちたものなのだ。野性には、暴力や裏切り、虚栄や嫉妬、貪欲や下品はない。森で動物と暮らすターザンが、一見洗練されたように見える都会に巣食うギャングより粗野で乱暴なのだろうか……。
超老人は肉体と精神を不離不分のものとして把握する。「心身一如」というわけだ。それは、デカルトの説く「心身二元論」の対極にある。四〇億年前の原始地球上に芽生えた生命の卵は、長い時間の流れの中でゆっくり進化を続け、数百万年前に人類の祖先が誕生した。このような生命進化の歴史を振り返ってみれば、人間が自然の一部であることに疑いをはさむ余地はない。そう、人間は自然なのだ。もちろん、人間には、動植物にはない知性が備わっている。だが、その知性とて、生物進化の産物であり、野性にしっかり支えられたとき真価を発揮するものなのだ。
高齢とはいえ、強い肉体をもつ超老人は、怠けている若者より優れた行動力のもち主だ。だから、あれこれ考える前にやってしまおう、という行動優先主義を掲げる。「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの主張に代わって、「我行動す、ゆえに我あり」という人生の指針を掲げつつ、行動こそ人間性の証であることを信じて疑わない。
この一見無謀と思われる生き方が、けっこううまくいっているのも、超老人が、知識だけを詰め込んだいわば「頭脳知」より、長い間の経験と行動によって「身体知」を身につけているからにほかならない。身体知は新しい世界を開拓することで修得されるのだから、多少の危険は承知のうえで行動を起こしてゆく勇気と旺盛な知的好奇心が必要だ。そして、ことがうまく運べばにんまりと幸せのひとときをかみしめ、失敗したときは、やるだけやったのだからしかたがないさ、とあっさり過去にケリをつける――「人事を尽くして天命を待つ」という心意気と活動的なからださえあれば、たいていのことは成就できる。