『ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか?』
[著]細田昌志
[発行]イースト・プレス
「糟糠の妻はいますか」
と問われ、
「誰がそうなのか判らない」
と言う人も中にはいる。
早くから結婚と離婚を経験し、再婚、また離婚、再々婚、と繰り返しているうちに成功を収め、どの時期の妻が糟糠の妻なのか判別できない男性を指す。もしくは、一人に限定できないという人物もいるだろう。
もちろん、成功前夜に一緒にいた妻なら、全員がそれに該当するといっても差し支えはない。
しかし「糟糠の妻」なるものがいたことすら、自覚していない男も中にはいる。悪気のないそういう手合いこそ、厄介で罪深い。だからこそ、性懲りもなく、結婚と離婚を繰り返すことになるのだ。
そう考えると、糟糠の妻とは、捨てた男の贖罪の念と、捨てられた女の悲哀に存在を立脚させているのかもしれない。
この手の経験をしている人物は、芸能界広しといえどそうはいない。が、三度の結婚と一度の事実婚を経験しているという人物がミュージシャンにはいる。音楽プロデューサーとして、一九九〇年代の日本の音楽シーンを席巻した“TK”こと小室哲哉である。
彼は、一九九五年から九九年まで、自身がプロデュースした歌手の華原朋美と事実婚状態にあり、二〇〇一年五月には自身も参加したユニット、Kiss Destinationの吉田麻美と結婚。一児をもうけるも、翌年三月に離婚。そして、その年の一一月に、現在の妻のKEIKO(globe)と結婚している。これらの三件は、彼が音楽プロデューサーとして大成功を収めてからのことなので、彼女たちが「糟糠の妻」に数えられることはまずない。
しかし、一九八八年に結婚した最初の妻に関しては、漏れ伝わる情報も少なく、今となっては、結婚生活そのものが謎に包まれている。もちろん、元妻の女性が、現在は別の男性と結婚していることも、その背景にあるのはいうまでもない。
彼にとっての糟糠の妻とは彼女になるのだろうか。それとも、彼にはそれに該当する女性はいないのだろうか。そういう意識は彼にあるのだろうか。
そもそも、小室哲哉にとって結婚とは何か。本章ではそれらを改めて探ってみたい。