小野寺が最初に赴任したのが、アメリカのリガ派外交官はじめ欧米のソ連ウォッチャーが集うリガだったことは大変幸運だった。日本にとっても、リガはソ連の動向、情報を収集するうえで重要だった。リガはポーランドのワルシャワとともに、欧州での「対ソ・インテリジェンス」の前線拠点であった。日本の公使館とは別に陸軍武官室があり(当時は公使館から独立していた)、小野寺は三代目となった。二・二六事件が起きる一カ月前の一九三六年一月、小野寺はシベリア鉄道でモスクワを経由してバルト海のほとりに赴いた。ロシア情報専門家として参謀本部から派遣された小野寺は、リガでの駆け出し武官生活を後年語っている。
「ラトビア公使館付武官というのは、おそらく一番小さい国の武官で、なにもかもない、補佐官もいない。オフィスを“村の駐在所”と呼んでいた」(『偕行』一九八六年四月号「将軍は語る〈下〉」)
バルト海東南岸に住むラトビア人は、隣のリトアニア人とともに、最古のインド・ヨーロッパ民族で、スラブ民族にもゲルマニア民族にも属さず、自国の言語ラトビア語を守り通した。