小野寺のSSUの尋問調書によると、マーシングはアプヴェールに参加したものの、十カ月後の一九四二年四月に退職し、フィンランド軍との関係も絶ってストックホルムに戻った。以降、文民として終戦まで小野寺との関係を最優先にして、小野寺つまり日本のための独立した協力者となった。つまりマーシングは「再就職先」として、ドイツよりも小野寺(日本)を選んだのである。武官室に出入りするが、職員として勤めてはいない。しかし小野寺は、情報の謝礼として毎月、彼の家族に一〇〇〇から一五〇〇クローネ(当時の為替レートで一クローネ約一円なので現在の価値で一〇〇から一五〇万円)を届けた。