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骨抜きにされた日本人
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政治・社会
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一、初期占領政策の形成過程

『骨抜きにされた日本人』
[著]岡本幸治 [発行]PHP研究所


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 教えられない制定過程

 一九八〇年代の終りごろから、私は日本が大きな転換期に入ると主張してきた。これは江戸川柳を用いると「売家と唐様で書く三代目」に戦後日本が突入したことを意味する。二代目の時代に通用した手法――膏薬貼り的な対症療法で急場をしのぐ小規模手直し路線――は効用を失い、大胆な「構造改革」を断行しなければ日本は「売家」の悲劇を招き寄せかねない状況となったのだ。ここにいう「売家」は経済的というよりはもっと大きい政治的(精神的)な意味あいをもつものである。三代目の日本の課題は「エコノミックアニマル」から「ポリティカルアニマル」への転換だと述べたのは、そういう考えを端的に表現したものである(岡本『脱戦後の条件』とくに第三章)。歴史の示すとおり国民精神の作興・振起という作業は,転換期の政治指導者が担う重要な任務である。したがって現代日本の政治改革は精神・魂の問題と重なり合う。「ポリティカルアニマル」は同時に「スピリチュアルアニマル」への成熟をめざすものでもなければならないのだ。
「二代目」的な手法,つまり官主導の膏薬貼り修正からは絶対に出てこない構造改革は、戦後日本の基本構造を定めた憲法の見直しである。日本人の魂の形成にかかわる教育基本法が「日本国憲法の精神に則り……新しい日本の教育の基本を確立するため」制定されたことは、前文に明示されているとおりである。憲法の見直しは単なる制度の見直しではなく国民精神の問い直しを含むものであるが,憲法も教育基本法も制定以来一字一句も改正されていない。この「聖域」を衝くことなしに「聖域なき構造改革」が成功すると思うのは、「エコノミックアニマル」の発想から抜け出せない時代錯誤ではないだろうか。本書を憲法への言及からはじめるのはそのためである。

 現行の「日本国憲法」の基本性格は、対日初期占領政策の眼目であり、その集大成であったという点にある。対日占領政策は、冷戦の勃発を挟んで内容を大きく変えた。冷戦構造の確立される以前を「初期(前期)占領政策」と呼び、以後を「後期占領政策」という。占領政策はけっして終始一貫した一枚岩のごときものではなかったことを押えておくことは、日本戦後史の諸問題を考えるうえできわめて重要である。

 憲法の制定過程について突っこんだ研究をしているはずの論者にも、ときどきこの点を混同する者がある。たとえば江藤淳は「憲法崩壊――包囲された一九四六年憲法」(『Voice』平成五年四月号)において、現憲法を「冷戦の落し子」と把え、冷戦構造の崩壊した現在、その存在基盤がすでに失われていることを指摘している。

 しかしこれは正確ではない。憲法そのものは「冷戦の本格化以前」の産物であり、第九条関連の部分については、冷戦後、解釈改憲で凌いできたにすぎない。そのいずれもが、今日の国際環境に適合しなくなったことが、憲法の現在的課題の一つ――重要な一つ――であって、冷戦そのものに短絡化するのは誤りである。

 現憲法の制定過程については、すでにほぼ明らかとなっている。田小委員会の審議記録が いまだに日本語で利用できない(政府が公開しない)といった問題点が残っており、マッカーサーはじめ憲法作成にかかわった人物の意図がどこにあったのか、推測(状況証拠)によってしか知りえない部分もなお少なくないが、数々の資料によって、制定過程の大筋は確認可能となっている。

 ところが、この事実は一部の専門家を除いて、日本人の共有する知識となっていない。なぜか。げんに日本人がそのもとで生活を営んでいる国家の根本法の制定過程が国民に知られていないのは、いったいどうしてなのか。

 ことは戦後(史)教育の根幹にかかわる。戦後の歴史教科書や、憲法そのものを扱う社会科(政治経済など)の教科書においては、現憲法を礼讚し、明治憲法に比べてその進歩性を高く評価する。だが、不思議なことに、制定過程についてはまったく無視するか、軽視するのを通例としてきた。「南京虐殺」から、最近では「従軍慰安婦」問題までの細かな歴史的事実を採用しながら、日本の教科書は、現憲法誕生の歴史的事実を生徒に教えようとはしてこなかったのである。

 この奇妙な「なぜ?」に対する解答は、じつは制定過程そのものの事実のなかに含まれている。

 そこで、現憲法の何たるかを知るために、これまでに内外の資料、当事者へのインタビュー等によって明らかにされた事実を、要約して示すこととする。


 日本処理の諸方策

 アメリカの「戦後計画」は、驚くほど早く検討が始められている。一九三九年九月一日、ヨーロッパで第二次大戦が始まると、アメリカはまだ参戦していないにもかかわらず、ルーズベルト大統領の意を受けて、ハル国務長官が省内に対外関係諮問委員会を設け、ひそかに研究を始めさせている。

 ルーズベルトは、ウィルソン大統領が第一次大戦後の世界に大きな影響力を及ぼそうとして結局失敗した、過去の歴史から学びとろうとしたのである。ウィルソンは理想主義的な言葉と原則で戦後世界を指導しようとしたが、現実との乖離が甚だしくて失敗した。ヨーロッパにおいて、英仏等の国家利益の赤裸々な主張を抑えられなかっただけではない。自国の内部においても、孤立主義への回帰世論を「国際化」に誘導することができず、新たにつくられた国際連盟は、提唱者を欠いたまま発足するというぶざまな結果となったのである。

 ルーズベルトの学んだことは、十分な戦後計画を準備するとともに、戦後世界にアメリカの主導する新秩序を構築するために必須のパワーを十分に備えることであった。

 昭和十六(一九四一)年一月に創設されていた国務省内の特別調査部は、対日宣戦布告のあと大幅に拡充され、民間からも多数の専門家を集めて、「戦後対外政策に関する諮問委員会」(昭和十七年二月)となった。日本問題に関する研究と討議は、昭和十七年夏に発足した「極東班」が担当することとなった。当時日本はマレーを落としシンガポールを攻略し、ビルマを占領するなど連戦連勝で、日本帝国の版図は有史以来最大のものとなっていた。しかしアメリカは戦争の勝利を確信し、早くも占領政策の検討に着手しはじめていたのである。

 戦後処理方針の最も早い段階での公表は、昭和十六(一九四一)年八月、米英によって発せられた「大西洋憲章」である。ここではウィルソン流の普遍主義的理念が語られ、諸国民の自決と平等が謳われ、勝者の領土的野心を否定し、各国に政体選択の自由を与えること、平和維持のため新しい国際システムを築くこと、などが盛りこまれていた。

 ところが、戦争の激化とともに硬化した世論を背景としながら、昭和十八(一九四三)年一月には「カサブランカ宣言」が発せられた。敵国を完全な軍事的敗北に追いこんで無力化し、戦後における発言権を奪うという「無条件降伏論」が打ち出されたのである。これによれば、日本には厳しい懲罰的平和が課されることになる。

 戦後の日本処理案は、「大西洋憲章」と「カサブランカ宣言」の両極のあいだを揺れ動いたということができる。アメリカ国内のさまざまな議論を整理すると、大別して六つの考えがあった(五百旗頭 真『日米戦争と戦後日本』大阪書籍)。厳しいものから穏やかなものへと並べてみよう。

 第一は、「日本壊滅・民族奴隷化論」である。これは「日本性悪説」に立つ議論である。アメリカは参戦の大義名分に、道義的・宗教的意味づけを行うことが多い。第二次大戦は、民主国=平和愛好国(善の権化・神の味方)と反民主(ファシズム)国=好戦国(悪の権化・悪魔の手先)の戦いであった。白と黒、正義と不正義に世界を峻別して、十字軍のような聖戦意識を鼓舞することにより、ルーズベルトは中立主義的な国内世論を完全に封じこむことができたのである。

 日本の真珠湾攻撃という「裏切り」――悪魔の所行――が、ルーズベルトの世論操作を助けたことはもちろんである。善と悪の戦いならば、悪を徹底的に叩きつぶすのが、世の中を善いものにする方法である。第一の説を支持するアメリカ人は、世論調査を見ると、三割から四割ぐらいはいた。

 第二は、「隔離・放置論」である。この主唱者は「中国派」の極東問題専門家ホーンベックなどである。島国日本を国際社会から隔離して、貿易も許さず、多数の犠牲者が出ようと放置しておく、というものである。国務省内の「中国派」は、概して対日処理等については厳しい懲罰的態度をとった。

 第三は、「介入変革論」である。無条件降伏論を主張する大統領の方針を受けて、日本の長期占領を行い「誤れる思想の絶滅」を図り、あらゆる悪を取り除いて無力化し、民主的で平和な社会に改造するというものである。天皇制は旧体制のシンボルであり、当然廃止されることとなる。

 第四は、「積極誘導論」である。日本の大胆な改革を必要とするという点では第三に近いが、アメリカが直接手荒な介入をするよりも、基本的条件や方向づけを示しつつ、日本人自身に変革させるよう誘導する、というものである。日本国内にはこの要望に応えることができる穏健派が存在しており、伝統的権威の名において改革を実施することができる。天皇制は、したがって改革そのもののために必要な「遺産」であるということになる。

 第五は、「介入慎重論」である。これは天皇制を含む日本の伝統的な制度を尊重しようとするものである。外部から強制されたものは、結局のところ(ヴェルサイユ条約のように)長続きしないものであるから、終局目標と必要な改革の大筋のみを示して、あとの細目は日本人に任せればよいとする。この場合も第四と同様、アメリカの対日目的を支持する穏健な日本の指導者が存在することを前提としている。

 第六は、「日本帝国温存論」である。これは権力政治の現実を冷徹に直視するところから出てきた議論である。戦後のアジアにおいては中・ソが台頭するから、日本帝国を弱体化させずに、むしろ中・ソへの対抗力として温存しておいたほうがよいというものである。


 知日派の奮闘

 六つの説のうち、最後に残ったものは、両極に近いものを除いた、中央に位置する二つの説、つまり第三と第四であった。第一の「日本人抹殺説」は、「文明と人道」を愛用するアメリカのとるべき道ではない。第二も、事実上日本人の過半数に死ねというようなもので、やりすぎである。

 第六の「温存論」は、中・ソを協力すべき味方と扱ってきただけでなく、戦後秩序の形成にも一役買ってもらう(国連安保理の常任理事国入りはその一例)ことを前提としていたルーズベルトの認めるところではない。第二次大戦中の同盟関係が維持されることを前提として構想された、戦後計画の基本にかかわるものであるから認めようがない。

 第五は第四と同様、対日占領計画原案の策定に当っていた知日派の主張するところであったが、「無条件降伏論」の立場から見ればあまりに宥和的とみなされ、国務省内ではあまり支持を得られなかった。

 終戦の前年は、第三と第四の説を中心として両者の対抗・緊張のなかで妥協が図られたときであった。四四年二月には、国務省幹部をメンバーとする「戦後計画委員会」(PWC)が設けられた。四月なかばからは、知日派のつくった案を集中的に検討して、占領政策の原型がつくりあげられることとなった。

 ハル国務長官をはじめ国務省の幹部は、知日派から提出された「積極誘導論」に立つ原案に対して、厳しい批判を行なっている。六カ月程度の短期占領、可能なかぎり天皇と日本政府を用いての占領、非軍事化と民主化の実施後は国際社会へ平等なメンバーとして復帰させる、等々を骨子とした第一次案は、「現在のアメリカ国民が日本に対してあまり同情的でないことに鑑み、誤解を招くおそれあり」というハルのコメントとともに差し戻され、より厳しい内容の修正案となったが、知日派も頑強に抵抗して、重要な点でその主張を維持しようとした。

 占領軍が統治するとしても、日本の下部行政機関を利用して統治する、というのはその一つである。天皇制については、その実権を奪うことは必要であるが、少なくとも名目的な役割は残して、天皇の名を用いて占領行政を行うことが成功の鍵であると知日派は主張した。しかし国務省幹部の反発は激しく、じつに四回にわたって文章の修正を命じている。

 このとき孤軍奮闘していた少数の知日派に、有力な助っ人が現れた。日米開戦まで十年間駐日大使を務めたことのある知日派中の知日派で、日本の実情を知悉している大物外務官僚のグルーがその人である。一九二四年から三年間、国務次官も務めた外交界の長老であり、その発言は国務省幹部にも軽々に無視することができぬ重味をもっていた。

 そのグルーが、昭和十九(一九四四)年四月二十六日のPWCで、知日派の立場を支持する演説を行なっただけではない。五月には、新たに拡充された「極東局」の長に任命されたのである。

 極東局長の後楯を得た知日派の力は強くなった。幹部が修正指示を出しても、知日派の委員は文言の手直し程度しかしてこない。結局のところ天皇制の問題は棚上げされた。当時アメリカの世論は圧倒的に天皇制廃止論が強かったのであるが、そのなかで知日派は、廃止決定を阻止することに成功したのである。

 当時のアメリカには、日本についての正確な知識を有している者の数はごく少数であり、原案の起草は彼らに委ねざるをえなかった。知日派はその特権をフルに活用して、後退し妥協を重ねつつも、自分たちの主張を対日政策に盛りこむことに腐心したのである。

 同年の十二月末に、対日占領の実施を担当する三省の次官補をメンバーとする「国務・陸軍・海軍調整委員会」(SWNCC)の設定が決定され、対日占領政策はいよいよ最終局面に入ることになった。昭和二十(一九四五)年六月十一日作成の文書「SWNCC一五〇」は、四四年に国務省でつくられた原案を継承したものであり、これが占領初期の対日方針を定める基本文書となるはずであった。日本政府は解消され、内閣も議会も廃され、軍政官が直接統治する。ただ軍政に際しては日本の下部行政機関を利用し、その協力を得やすいようにするため天皇の名を用いる――これが国務省案の骨子であった。

 ところが、日本降伏の直前になって、この「無条件降伏論」に立つ厳しい対日方針に修正が加えられることとなった。その現れが、七月二十六日の「ポツダム宣言」である。修正された主要な点は以下のとおりである。


 グルーの終戦努力

 第一は、日本国(政府と軍隊の双方を含む)の無条件降伏から、軍隊のみの無条件降伏へ。

 第二は、「日本国は、連合軍当局が発するいっさいの命令に従わなければならない」から、「日本国は、この宣言に述べられた条件に従い、今次の戦争を終結する機会を与えられる」へと、条件つき降伏と解される文言に緩和されている。

 第三に、日本国政府の地位に関するもので、「いっさいの権力は連合国に移行する。行政機関と大部分の政府関係機関は連合国の命令に従って事務を遂行する」という従来の考え方はあいまいになった。日本国政府の地位は不明確であるが、第十項に「日本国政府は、日本国国民のあいだにおける民主主義的傾向の復活強化に対するいっさいの障礙(しようがい)を除去すべし」とあるところから判断すれば、日本国政府は存続し、一定の職務遂行に当るように、と読める文言になっている。

 第四に、「天皇の権力は連合国に移行する。天皇は、保護拘禁のもとに置かれるものとする」という従来の政策は表現されず、天皇についての言及がない。退位せよとの文言もないから、天皇はその地位に留まるものとも考えられる。

 ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であるから、日本政府が受諾すれば、国際協定となり、必然的に国務省の従来の政策、とくに無条件降伏の解釈と適用に関する政策は、修正を余儀なくされると国務省は受けとめていた。日本外務省も、宣言を無条件降伏の是正と受けとめていたのである。東郷外相はその受け入れを進言し、鈴木首相も慎重検討に同意した。しかし陸海軍には、公的に何の言及もしないことに対して強い反発があり、鈴木首相は「ただ黙殺するだけである」と記者会見の席で質問に答えた。外電はこれを“ignore it entirely”(完全に無視する)と伝えた。その結果が、二発の原爆とソ連の参戦であったことは周知のところである。

 グルーは、昭和二十(一九四五)年四月十二日にルーズベルトが死んだ後、つまり戦争の最終局面において再び国務次官に選ばれていた。トルーマン大統領は外交の素人であったため国務省に完全に頼らざるをえなかった。そのときの国務長官(病気を理由に辞任したハルの後任)ステティニアスも外交に無能であったために、新次官にはベテラン外交官が不可欠ということでグルーが選ばれたのである。

 無能な上司を戴いたために事実上の国務長官の役割を演ずることとなったグルーは、まもなく重大な国家機密を知らされた。一つは晩年のルーズベルトが、国務省に内容をまったく知らさぬまま個人外交を展開してスターリンとのあいだに結んだヤルタの秘密協定である。ソ連に対日参戦させる代償として、ルーズベルトは満蒙の旧日本権益と北方領土を与える約束を交わしていた。

 他の一つは陸軍長官スティムソンから得た情報で、ついに原爆の開発に成功したというものであった。ソ連の参戦と極東への勢力拡大は、戦後アジアの政治地図を変える危険なものとなると考えたグルーは陸軍長官に働きかけたが、スティムソンは「戦争を短縮し、米国人兵士の犠牲を減ずるため」になお必要性があると考えていた。

 残された道は日本の早期降伏を実現することであった。ソ連参戦前に日本が降伏すれば、ヤルタの密約は無意味となる。しかし原爆を用いて日本の中枢部を焼き尽くしてしまえば、日本政府も消滅し、交渉そのものが成り立たなくなる。

 グルーは日米関係の再建を熱望し、戦後の日本をアメリカの友人としなければならぬと考えていた。日本の早期降伏を決断させるためには、外交的手段により天皇制の容認を含む穏和な条件を、大統領の対日声明として発するのが一番である。この案に対しては国務省内の幹部すら猛反発した。しかしグルーはトルーマン大統領を説得し陸軍長官の同意をとりつけ、日本人の面子を重んじ、降伏を可能にするような条件提示による終戦努力に全エネルギーを注いだ。

 ポツダム宣言――米英支三国の共同声明という形で出された――の第十項(前述)は、民主化の主体を日本政府としており、軍政ではなく間接統治に道を開くものである。このようにしてグルーと知日派の尋常ならざる努力の結果、日本は降伏条件の緩和という幸運に恵まれたのである。だが、じつは日本人自身の勇戦奮闘が、とくにアメリカ軍部の見解に影響を及ぼしていたことも見逃せない。


 土壇場の攻防

 五月にドイツが降伏して以後のアメリカ政府は、いかに少ないコストで日本を降伏させるかが重大関心事であった。二月の硫黄島、四月の沖縄戦は、日本軍の死に物狂いの抵抗の凄まじさを強く印象づけるものであった。硫黄島攻略の際、二万三千人の日本守備隊はわずか二百人の捕虜を除いて全員玉砕した。圧倒的な物量で叩いたにもかかわらず、米軍の死傷者は同数の二万三千人に達していた。この小さな島一つを取るのに、予定の三倍の期間と、予想の三倍を上まわる犠牲者を要したのである。

 沖縄戦も同様であった。米軍は、南九州と関東の上陸作戦によって日本にとどめを刺すことにしていたが、日本本土における戦いがどんなに大きな犠牲を伴うかについて危惧せざるをえなかった。ソ連参戦も原爆使用も、米軍の人的コストを小さくするための手段であったが、莫大な犠牲を払わざるをえない軍事的手段に代って、外交的手段で決着がつけばそれに越したことはない。アメリカの軍部がグルーの提案に賛同した大きな理由に、こんな事情があったのである。軍部の対ソ不信も、ドイツ占領以降強まりつつあった。日本の早期降伏はいっそう望ましいと考えられたのである。

 グルーはしかし、天皇制の容認を明言させることには成功しなかった。結局のところ政府は、明言を避けることによって、占領目的の達成に協力しなければ天皇制を廃止するぞという脅しをかけることができる。そのほうが、占領改革を推進するうえで有用であると判断したのである。廃止を主張する国務省と、暫定的存置(占領改革のための利用)を主張する統合参謀本部・陸軍のあいだに、意思統一が困難であったという事情もからまりあっていたであろう。

 グルーの影響力は、ポツダム会議のあたりで限界にきていた。七月三日、バーンズが新国務長官となったが、彼は世論に追従する以外に、これという識見・定見のない人物であった。彼が選んだ二人の次官補はちゃきちゃきのニューディーラーで、日本に対して宥和政策をとることには絶対反対であった。七月下旬から国務省は、バーンズのもとで対日強硬路線を歩むこととなる。

 ポツダム宣言の発せられたのは七月二十六日であるが、グルーとスティムソンは、宣言の最終稿の作成から除外されていた。グルーは八月に、スティムソンは九月に引退して、政府部内の対日宥和路線は後退する。

 八月十日付で日本政府は、「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言の受諾回答をした。この条件に同意を与えれば、天皇制と明治憲法がそのまま残存することになると考えたアメリカ政府は、明確な約束を与えず、存廃のいずれも可能な含みのある文言で回答を与えた。
「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」
「最終的な日本政府の形態は、『ポツダム宣言』に従って、日本国民の自由に表明される意思により樹立される」
「従属」(SUBJECT TO)を外務省は、強硬姿勢を崩さない軍部を(おもんぱか)って「制限ノ下ニオカレル」と意訳した。その意味をめぐり再び論議は沸騰したが、十四日の御前会議で、再度天皇は決意を披瀝された。「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」。

 列席した日本の最高首脳は、誰一人として頭を上げる者はなかった。天皇と日本民族を史上初めて異民族支配下に委ねるという過酷な運命の前に、暗然として涙を流したのである。


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