唯一絶対神をかかげない仏教の変容
仏教の、時代とそれが伝播した文明圏のちがいを通して一貫していたテーマは、なんらかの実践を通して、悟り(菩提)を得ようという目標をもっていたことだろう。こころの平安を目指してきた、といってもいい。
だが仏教は、キリスト教、イスラーム、あるいはユダヤ教とくらべても、その変容が激しい宗教といえる。
信仰の対象が釈尊から、大乗経典・密教経典の編纂にともない多様化し、それが日本仏教において宗祖への信仰、さらには神仏習合の尊格への信仰へと広がったとき、仏教は霊魂信仰というに等しい変容を遂げることになる。
仏教はその無我説の立場から、霊魂の存在については説かなかった。
だが無量寿経、阿弥陀経など、称名念仏による浄土往生を説く浄土経典の出現は、死後における往生の主体が何であるかの問いを生み、仏教はウパニシャッドによる輪廻説を受け入れ、霊魂の存在は暗黙のうちに認められることとなり、仏教信仰の裾野を広げることになった。
さかのぼれば釈尊の遺骨を塔に祀り礼拝したことは、釈尊の神格化、その教えであるダルマ(法)への尊崇の念によるとしても、その実質は釈尊という偉大な人格の霊魂への信仰だったともいえる。
釈尊は「自己は自分の主である」「自己こそが自己の依りどころ」と『ダンマパダ』に語り、のちに『マハーパリニッバーナ経』で「みずからを灯明とし、法を依りどころとして」(自燈明・法燈明)生きることを説いていた。