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荒野(あらの)の宗教・緑(みどり)の宗教
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生き方・教養
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『荒野(あらの)の宗教・緑(みどり)の宗教』
[著]久保田展弘 [発行]PHP研究所


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無力であるという認識


 情報が人から人へダイレクトに伝えられるより、ネット上の画面を通して伝えられることが当たり前になって以来、人間の五感の能力は確実に衰えている。情報が人間の感性を通して伝えられる以前に、情報自体がモノ化している、というほうが現実にふさわしいだろう。

 ならば宗教はいま、どんな機会に認識されるのか。

 一九八〇年代以来こんにちまで、報復の連鎖でもあるように、世界のどこかに途絶えることがなかった民族紛争の名でいわれる紛争・戦争を通して情報にのぼる宗教は、つねに人間同士を対峙に追いやるもの、事件のキーワードでもあるような相貌で登場してきた。

 二〇〇一年九月十一日のアメリカにおける同時多発テロ事件以来、ほとんど抵抗なく受けいれられてきた〈報復戦争〉という正義の断定は、宗教そのものを一層、孤立化させ、人々を宗教の本質に近づけることを拒んでいる。

 ユダヤ教、キリスト教は、人をどう導こうとする宗教なのか。

 イスラームとは、どんな教えをもつ宗教なのか。

 この素朴な問いが放棄されたまま、事件としての宗教だけが暴走を強いられているのだ。

 事実、民族紛争が激化して行くなかで、宗教というより民族の帰属意識が誘発する神の認識というべきそのちがいが、対立を煽ってきた経緯は確かにある。

 だがこのとき、宗教は異なる価値観、認識を排除し否定し、憎悪をつのらせる力にはなっても、対峙する民族の現実を抑え、紛争を回避する力にはなりえなかったのだろうか。

 民族紛争の時代といっていい二十世紀の百年、そして現代におよぶ時代をたどるだけでも、宗教にそうした力はなかった、というしかない。

 宗教は、紛争・戦争といった、現実に立ち起こる俗権力の対峙の前に、ほとんど無力だったのだ。

 中世から近世にかけてヨーロッパ各地に頻発した、キリスト教徒によるユダヤ人排撃・虐殺がピークに達した、第二次世界大戦にいたる激動の時代、カトリック教会の首長(ローマ教皇)であったピウス十二世(ピオ、本名エウジェニオ・パチェリ。在位一九三九─一九五八)は、ナチスの暴虐行為がまかり通ったそのとき、極度の人間性無視といっていい行動にたいし終始、沈黙をつづけていた。

 沈黙をつづけながら「主よ、慈悲深い寛大な心をもって、私を憐れんで下さい。かくも長き、いいようのない悲惨な時代を通して、教皇としての私の弱さ、過ち、そして犯した罪の意識は、私がその地位にふさわしくない、足らない者であることを、ますます自覚させてくれました」(大澤武男訳)と述べ、さらに彼は「どうか、私の不徳により心を傷つけ、害を加え、中傷したすべての人々が、私を許して下さいますように」と祈ったのである。

 カトリック・キリスト教が広くヨーロッパをおおっていたその時代、その首長たる教皇の発言によっては、ナチスの虐殺行為のすべてをくい止めることはできなかったとしても、そのいくつかを防ぐ力にはなっていたはずである。しかし、ピウス十二世は、事態を前に、沈黙という虐殺肯定をつづけていた。

 だが私たちは、このことと同時に、同じく第二次世界大戦中、戦意昂揚のため、日本の多くの仏教僧が寺院で、さらに戦地にまでおもむき、声を大にして敵国降伏を祈っていたことを思うべきだろう。

 絶大なる権力、さらに経済力の前に、人間は宗教をもって立ち向かうことはできない。しかしむしろ、俗権力の前に宗教は手も足も出ないものなのだという、その弱さの本質を知ることから宗教をとらえ直すことができるとしたら、宗教はいっきに私たちの現実のテーマとなるかもしれない。

 むろん洋の東西を問わず、宗教史上に人間救済という実践を果たした多くの宗教者のいることを忘れることはできない。だが、その誰もが、共同幻想としての信仰から抜けだした、個の信仰者であったことを見逃してはならないだろう。

 宗教が権威化し、権威化が生みだす共同幻想がさらに超越的な幻想を生みだすとき、そこに発揮される新たな宗教的な権威は、俗権力の横暴さ以上に始末が悪いことは、歴史上のいくつもの現象が証している。

 宗教を、それが人間に役に立つか立たないかという見地でとらえるなら、宗教はそこに赤子(あかご)が横たわっているのと同様、なんの役にも立たないだろう。だが、そこに赤子が横たわっているという事実は、おそらく誰のこころにも、いのちの危うさと、力にたいする無力を痛感させるのではないか。

 宗教がもつ意味は、われわれ個々の目の前に、この赤子が横たわっているのに似てはいないだろうか。赤子が神であり、ブッダであってもいい。

 それは力にたいする徹底した無力によって人のこころを動かし、いのちの危うさの認識において、互いのいのちを気づかせる存在である。

 一神教の神を、報復を命ずる絶対的な存在としてではなく、内面において認識できる存在として受けとめることができるとしたら……。

 また、赤子を阿弥陀如来の、観音菩の尊像におきかえてもいい。

 このとき、目の前の仏像は、物理的な力にたいし無力に等しい。力にたいし、力をもって抗することはできない。だがもし仏像に向き合いつづけることによって、そこに自己の内面に向き合う通路の入り口を見つけることができるとしたら、そこにいのちのありようを認識することができるとしたら、その仏像は偶像であって偶像を超えた何かになりうるだろう。

 この著は「宗教とは何なのか」という問いにはじまっていた。しかし「宗教とは」という問いが、民族紛争の記憶が生々しいバルカン半島のコソボにおいて、あるいはボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボにおいては、ほとんど意味をなさない、というより、この問い自体が客観的に過ぎ、傲慢さを帯びて響くことを私は痛感していた。

 コソボでは紛争当時より現在のほうが、宗教が人々に意識されているかもしれない。民族虐殺という事実が、民族共存のスローガンの背後に隠されてしまうことを、多くの人が恐れているからである。

 文字の上からではわからない、民族対立の歴史的背景、民族差別の実態を記憶にとどめる人々を前に、私はその都度たじろぎながら、多くのことを教えてもらった。

 そして私にとって、宗教を問うことは、とりわけ二〇〇一年の同時多発テロ事件以降、現在にいたるアメリカの行動、その戦略を通しても持続していた。この持続的な問いが、この著を「荒野の神学(宗教)・緑の神学(宗教)」というテーマに導いてきたのである。「荒野の神学」がもつ報復の思想が、さらに憎悪と敵意の連鎖を生んでいるいま、私たちは間違いなく、宗教を問うべき時代にいる。


 この著の構想は、アメリカにおける同時多発テロ事件以降のアフガニスタン戦争、イラク戦争によって激しくゆさぶられてきました。民族紛争をさかのぼるなかで、歴史的にいくつもの帝国、大国の支配・干渉を受けてきたバルカン半島への取材は、私にとって避けて通れない関門でもありました。

 そして私の思索と反問の経緯を、励ましと共に見守りつづけてくれたのは、PHP研究所新書出版部の佐々木賢治氏であり、前任の三島邦弘氏でした。また、この著の「序章」にあたる小論の骨子は、集英社『すばる』の編集長であった片柳治氏のすすめによるものです。

 ここに皆さんの励ましと多くの示唆にたいし謝意を表します。

二〇〇四年 七月二十二日

久保田展弘
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