渺茫たる太平洋を戦域とする巨大な主敵アメリカを向こうに回しての戦争。しかもその戦争が国家の総力を

しての戦であり、長期持久の戦となることの不可避性をよく承知しつつ、何故、日本は、その要請に耐え得る戦備ないし戦力を蓄えることをせずして、戦争に突入したのか? 横山を含めた多くの人々が指摘しているように、確かに日本は、戦争準備に全力を投入するどころか、ただ「漫然と」(横山前掲書 八〇頁)戦争に突入した感があった。
戦備について、事実、日本の国家諸資源(ヒト、カネ、モノ)をあずかる主要閣僚たちは、こともあろうに開戦間際になってさえ、なんの自信も持っていなかったばかりか、むしろ、内心では、戦争に反対していた。
開戦当時、大本営陸軍部の第一部長だった田中新一の回顧によれば、この問題をめぐって、開戦二カ月前の一九四一年十月七日に開かれた閣議を支配していたのは、意気消沈した雰囲気であった。小倉正恒蔵相や村田省蔵逓相(当時、逓信省は造船をも担当していた)は、物資や船舶をめぐる戦備について、こもごも国の「窮境」について語った。が、にもかかわらず、東條陸相の、「今日は既に普通の経済ではない、今や戦い抜かねばならぬ時代である」(戦史叢書『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯』〈5〉一〇四頁)という、日本の現状に目を閉じての倒錯した妄言(でまかせ)が、閣議を開戦の方向へとひきずったといわれているのである。
いうまでもなく、ただただ強硬なトーンだけが空しく響く小児病的観念論に他ならなかったが、この日本人流の観念論こそが、ボルテッジの高い心的気圧の状況下での物事に対する超論理的支配者となったのだ。すでに述べた事実からも容易に推察できるように、陸軍出身の東條にしてみれば、アメリカを主敵とする太平洋戦争は、本来、「海主陸従」の戦であって、この戦域での戦争は、もっぱら海軍にまかせておけばよいと考えていたに違いない。