『超訳「言志四録」西郷隆盛を支えた101の言葉』
[著]濱田浩一郎
[発行]すばる舎
次の『論語』のくだりは有名なので、聞いたことがあるのではないでしょうか。
「子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」
「私は15歳のときに学問に志を立てた。30歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。40歳になると、心に迷うことがなくなった。50歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。60歳になると、人の言うことがなんでも素直に理解できるようになった。70歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、人の道を踏みはずすことがなくなった」という意味です。
これだけを読むと、孔子は順風満帆な思想家人生を歩んだようですが、実際は挫折の連続でした。
孔子は世の中から道徳が衰退してしまったことを嘆き、それを改革するために一時は一国の大臣になって政治家として手腕をふるいました。しかし、国内外からの妨害によって、56歳のときに大臣を辞めざるを得なくなり、以後は理想の国を追い求めて放浪生活に入っています。
旅を続けた孔子でしたが、結局は政治への希望を失い、最後は故郷で弟子たちの教育に専念するのです。孔子の凄みは、こうした挫折と放浪の繰り返しの中においても、学びの歩みを止めなかったことではないでしょうか。
西郷さんも『遺訓』(第19条)の中で、「昔から、主君と臣下が共に自分は完璧だと思って政治を行った世にうまく治まった時代はない。自分はまだ足りないと考えるところから始めて、下々の言うことも聞き入れるものである」と話しています。
『言志後録』に着手したとき、一斎先生はすでに57歳でした。政治に限らず、大きな目標を達成したいのであれば、「自分にはまだ何かが足りない」という自戒の念を常に持たなければならないのです。
沖永良部島に流された西郷さんは、当初、2坪ばかりの、戸や壁もない草ぶきの獄舎に入れられます。本土よりも沖縄に近いこの島は、高温多湿で雨量も相当なものでした。もちろん、風や雨も入り込み、常に見張りが2人付けられていました。
凡人であれば不遇に絶望し、おかしくなってしまいそうですが、西郷さんはここで寝食を忘れて読書に没頭するのです。島には儒学の入門書『伝習録』や『近思録』、『韓非子』などの中国の書物を持ち込んでいました。そしてその中に、一斎先生の『言志四録』もあったのです。
西郷さんは絶望的な状況の中でも学びを進めながら、心に残った『言志四録』の一節をひとつひとつ、書き抜いていったのです。
自分の好きなことに懸命に取り組んでいるとき、人は悩みや迷いから解放されています。
プロスポーツ選手のプレイが活き活きして見えるのは、そのためでしょう。きっと、胸中から心配事やつまらない考えが消え去っているはずです。
しかし、我々凡人は仕事などに取り組むとき、「他にも挑戦したいことがあったけど、これで良かったのかな」、「本当に今の進路のままで良いのかな」と、すぐに悩みや迷いが出てきてしまいます。
そんなときにヒントをもらえる言葉が、西郷さんの『遺訓』(第22条)に載っています。
「自分に克つという事は、そのとき、その場の、いわゆる場あたりに克とうとするから、うまくいかぬものである」
つまり、場当たり的な視点から物事を考えるのではなく、長い目で見て自分にとって何が大切なのかを見極める必要がある、ということです。そうすれば後悔したり、迷ったりすることも少なくなって、一生懸命に打ち込めるものが見つかるはずです。
西郷さんも『遺訓』の中で、「指導者は一般国民の手本となり」(第4条)と、上に立つ者が模範になるべきだと語っています。政治でも教育でも、これは同じでしょう。
絶海の孤島・沖永良部島で西郷さんは、教育者としての顔を見せています。