福岡発の世界的ベンチャーを目指して起業
私の友人で静岡大学の浅井秀樹教授は、電磁回路設計のための数値シミュレーション研究の世界的な第一人者で、独特の持論がある。
「回路計算が十倍の速さで現場が喜ぶ、百倍になると世界が動く。さらに千倍以上になると時代が変わる」
アイキューブドシステムズの社名のアイはイノベーションのイニシャルの「I」で、「イノベーションを三乗する」の意を込めた命名である。イノベーションを三乗のスピードで成し遂げながら、世の中のシステムを変革して、人々によりよい暮らしを提供していくという使命感を象徴したものと思うが、まさに浅井教授の持論そのものである。富士通が開発したスーパーコンピュータ「京」の可能性そのものともいってよい。
アイキューブドシステムズという会社をまだ知らない読者のために紹介すると、佐々木勉社長が「福岡発で世界に通用するソフトウェアサービスを開発する」と宣言して二〇〇一年に起業したベンチャー企業で、グーグル、アップル、オラクル、ベリサインなどと技術提携、業務提携し、クラウドに特化した事業を展開、同社が二〇一〇年十月にリリースした「CLOMO」は日本で最初のスマートデバイス用統合管理プラットフォームとして高いシェアを誇っている。また、スマートデバイス用アプリを簡単に開発できるようにした「Yubizo Engine」はユーザーから高い評価を受けている。
しかし、これでは通り一遍の紹介にしかならない。ローカル企業のアイキューブドシステムズが脚光を浴びるようになった要因を象徴的に物語る数字を挙げて、この会社がどのような可能性を秘めているか、だれにでもわかるようにしていきたいと思う。
さて。
二〇〇一年に起業したアイキューブドシステムズの売上が一億円を超えたのは、二〇〇九年であった。一億円台を突破するのに足掛け九年を要したというのに、それからというもの、二〇一〇年度二・四億円、二〇一一年度七億円、二〇一二年度十億円とほぼ倍々ゲームを演じてきた。この会社に何かが起きたとすると、二〇一〇年あたりだろう。
アイキューブドシステムズの二〇〇九年からの記録をひもとくと、
二〇〇九年 フクオカRuby大賞優秀賞受賞。
二〇一〇年 畑中洋亮取締役、アップルジャパンを退職。
二〇一一年 畑中氏、アイキューブドシステムズ入社。小湊啓爾副社長、アクセンチュアを退職してアイキューブドシステムズに入社。
二〇一二年 佐々木勉社長、アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー・ジャパン(EOY 2012 Japan)〈チャレンジング・スピリット部門〉大賞受賞(参考までに付け加えると、二〇一一年の受賞は二十五歳で上場を果たしたリブセンスの村上太一社長)。
以上の記事に出合う。
それまでは佐々木勉社長と社員第一号の大淵一正取締役、UXエンジニアの一瀬一磨さんほか数人という文字通りのベンチャー企業であった。そういうアイキューブドシステムズに転機をもたらしたのが、二〇〇九年後半に起きたアップルジャパンの体制変更であった。そして、その体制変更で蘇生をみた一人の男がアイキューブドシステムズを今日に導いたといっても過言ではないのである。
アップルジャパンの異端児だった畑中洋亮
横道にそれるのをあえて承知のうえで、その男「畑中洋亮」のアップル時代を振り返ると、彼がアップルジャパンに入社したときは、社長にかなり目をかけられたらしい。ところが、何が気に入らなかったのか、いつも彼のほうから楯突いて、九州に飛ばされ、量販店の店頭に売り子として立たされた。しかし、彼は腐らず、コンシューマー向けの売れ行きを現場で見て、近い将来、法人マーケットをも含めて「スマートフォンの時代」がくると直感した。そして、間もなく、彼は東京オペラシティタワーの本社に呼び戻されて、社長に会った。
「頭、冷やしたか」
彼は返事をしなかった。
「どうだ、もう一度、ヘッドクォーターでやるか」
普通なら喜んで「社長、よろしくお願いします」というところなのだが、彼にかぎってはそういう常識的なパターンが当てはまらない。現場のおもしろさを知ってしまっただけに、以前より輪をかけて生意気なことをいったらしい。
「おまえの顔なんか、もう見たくもない」
激怒した社長にそういわれて突き放され、再び飛ばされたのが法人営業部だった。
二〇〇九年当時、日本のスマートフォン法人マーケット開拓はアメリカ本社が直接やっていて、日本法人は手を出せなかった。となると、彼にはやる仕事がない。完全に窓際に追いやられたわけである。
こういう場合、席を蹴って会社を飛び出すという月並みな手段もないわけではないが、「人が情報を生み出すことを促進する装置をつくる。そこに大きな可能性を感じてアップルに入った」という男だけに、これぞアップルの次の主軸と自ら信ずるiPhoneを置き去りにして辞めることはできなかった。
さりとて法人営業部に残ったとしても、彼のほかにはアメリカ本社派遣のスマートフォン法人マーケット担当者が一人いるだけで、彼自身はiPhoneのビジネスに触ることすら許されない。畑中さんをあえて法人営業部に飛ばした社長の意図は明らかだった。
だが、
「いずれ日本法人がiPhoneをやることになるのはわかっている。そんなこともわからない社長なら、いないのも同じだ。いいから、やっちゃえ」
畑中さんは社長にも正規の担当者にも無断で、iPhoneの法人マーケット構築のために奔走を開始した。
体制変更でiPhone販売の責任者に
吉川英治の大河小説『三国志』をパターン化して当てはめると、これまで述べたような畑中さんのキャラクターは明らかに張飛的である。気に入らないことをやらせると制御不能に陥るが、自分からこれと見込んだときは猛然と突っ走る。
最初は目立たないからよかったが、法人マーケットがかたちになるにつれてヤバくなってきた。そして、社長にバレる寸前で起きたのが、アップルジャパンの体制変更だった。社長が退任するのみならず、部長以上がすべて飛ばされた。もちろん、iPhone法人営業の正規の担当者も去った。この交代劇に伴って、わが国の法人マーケットの開拓を日本法人がやることになり、「iPhoneをやったことがあるのはだれだ」となった。当然、社長に逆らって無断で着手していた彼しかいない。
「私です」
畑中さんが名乗り出ると、
「USのカウンターパートナーとして日本の法人営業をやってくれ」
という。
入社してまだ一年が経ったばかりの畑中さんに、日本におけるスマートフォン法人マーケットへの切り込み隊長をやらせるのだから、アップルも大した会社だ。こういうところが優秀でフレッシュな人材をひきつけるのだろう。その場で彼はアメリカのワールドワイドセールス&オペレーションズに所属させられた。
「日本のエンタープライズマーケットにスマートフォンを入れていくにはどうしたらよいか、そこをよく考えて何か提案してくれ」
彼はもう一人ではない。何人もの部下を持つiPhone法人営業の責任者だ。iPhoneを売り込む際に「こういうことができます」という提案をしていく方針を立て、勇躍して、システム開発のパートナーづくりに奔走を開始した。
このとき、システム開発のパートナーに名乗りをあげたのが、アイキューブドシステムズの佐々木勉社長なのである。しかし、入社一年でアップルの次期主力スマートフォン「iPhone」の国内法人マーケット開拓の責任を担うことになって、意気軒昂たる畑中さんの前に現れた佐々木勉社長はどんな感じだったかというと、彼とは正反対に謙虚で礼儀正しく真面目な人柄で、一見しただけではそれだけが取り柄のごくごく平凡な男にしか見えなかった。
「なんだ、こいつ? ちょっと頼りないな」
佐々木社長と会ったとき、畑中さんは頭からそう決めつけた。
優秀なのだが、一度、判断にズレが乗じると、訂正するのに時間がかかる男だったから、それから半年ほどのあいだにたびたび顔を合わせていながら、
「何か人のよい、おれのいうことをよく聞いてくれる、気の利いたヤツ」
という程度にしか畑中張飛の意識は改まらなかった。
畑中さんの佐々木社長に対する第一印象・第二印象にようやく訂正の手が入り始めたのが、半年を過ぎたあたりからで、一年経つ頃には完全にひっくり返った。