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ドキュメント 太平洋戦争への道 「昭和史の転回点」はどこにあったか
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歴史
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第八章 四つの御前会議──かくして開戦は決定した

『ドキュメント 太平洋戦争への道 「昭和史の転回点」はどこにあったか』
[著]半藤一利 [解説]土門周平 [発行]PHP研究所


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 対英米戦を辞せず──七月二日


 昭和十六年六月二十二日、ナチス・ドイツがソ連に進攻した。


 三国同盟締結時の目的である日独伊ソ提携して米英陣営に当たるという夢は、この瞬間に崩壊し、いまや、ソ連も米英側へと加わった。世界は二つにわかれた。理論的には、約束を破ったドイツと手をきり三国同盟から脱退、中立化して世界戦争から脱出できるチャンスが日本に訪れたが、あえて三国同盟に固守した。一つにはドイツの勝利を信じて、その後にきたる新しい世界地図を想像したからである。当時の「バスに乗り遅れるな」の合言葉がその証左となる。そのために、日本に残された道はただちにソ連に戦火をひらくべきか、延期するかということであった。


 はじめて“対米戦争”という文字があらわれた「帝国国策要綱」は、こうした世界情勢を背景に、苦心して作文された。一言でいえば、「大東亜共栄圏の建設」「南方進出」「目的達成のため対英米戦を辞せず」を明文化した最初のものであり、日本として戦争決意を公式に表明した運命的な決定であった。


 七月二日の御前会議で、この政策は天皇の裁可をえて正式のものとなった。


 帝国は大東亜共栄圏を建設し……支那事変処理に邁進し、自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩を進め、また情勢の推移に応じ、北方問題を解決す。


 そして「本目的達成のため対英米戦を辞せず」ときめた。南方進出をうたい(海軍が主役)、一方に北方問題の解決(陸軍が主役)をとなえる。いいかえれば、日本は日和見政策を採用したのである。この時点で、なぜ南方へ進出することが必要なのか。それをいかにして実行すべきか。それらに答えるものに、木戸幸一の手記がある。

「此の世界の急激なる大変動に際会し、我国が独り拱手傍観し居る能わざるは当然であって、資源の貧弱なる我国が南方の石油、ゴム、鉄を入手する為の施策を為すは、何等差支なき所であるが、之れは飽く迄も平和的に行れるべきものであって……」(原文は旧カナ)


 そのときの天皇の発言も、同じ木戸手記にある。

「わが国は、歴史にあるフリードリヒ大王や、ナポレオンのような行動、極端に云えば、マキャベリズムのようなことはしたくないね。神代からの御方針である八紘一宇の真精神を忘れないようにしたいものだね」


 こうして七月二日の御前会議で、外相松岡洋右のいう「三国同盟の目的と精神にもとづいて行動」し、ただちにソ連を撃つべしという“戦争”論よりも、“平和”的な南方進出のほうがましと考えて、妥協的な匂いの強い作文が国策となった。「宮中は戦争気分がうずまいた」(伊藤正徳『軍閥興亡史』)なかでの御前会議の決定であった。


 このころアメリカは日本の外交暗号の解読に成功していた。外務省よりドイツ・イタリアの日本大使館あてに打たれた秘密電報により、七月八日には、アメリカは御前会議決定の日本の国策を知るところとなっていた。


 そうとは気がつかずに、南部仏印の進駐はきまった。とともに、八〇万の関東軍の大演習(いわゆる関特演)を、ソ満国境で行うべく大命がでた。


 関特演は、しかし、あくまで示威行為であったから、致命傷にはならなかった。が、御前会議の決定を実地に移した仏印進駐の結果は容易なことではなくなった。アメリカが、強硬な施策をもって応じてきて、日本を窮地に追いこんだのである。七月二十三日の日本の進駐決定、二十六日にはアメリカは在外資産を凍結。七月二十八日の日本軍の南部仏印上陸。待っていたとばかりアメリカは、八月一日石油の対日輸出を禁止すると発表した。日本の政策に対して、アメリカも戦争政策で対応してきた。


 日本軍部のもくろみは、七月中に進駐すれば、十一月には基地が完成する。十二月以降の戦争の危機にも対応できるということにあった。十月から仏印は雨期に入る。その前に飛行基地を完成しておかなければならない。これが進駐を急いだ大きな理由である。それが石油の輸出停止というしっぺがえしを生んだ。あわてた木戸内相は、八月七日、近衛首相と会って話をする。石油禁輸はゆゆしい問題であるといい、

「油ハ海軍ガ二年量トシテモ戦争ヲスレバ一年半シカ無イト云フ、陸軍ハ一年位トノコトダ。ソコデ結論カラ云ヘバ、右ガ事実ナリトスレバ、到底米国ニ対シテ必勝ノ戦ヒヲ為スコトハ出来ナイト云フ外ハナイ」


 手近に石油を求めようとなれば、北樺太か蘭印ということになる。蘭印に手を出せば米英、樺太ならばソ連との戦いは必至。だから、今日のところは、

「日清戦後ノ三国干渉ノ場合ト同ジ決意ヲスル外ハナイト云フコトデハナイカト思フ。即チ今後十年ヲ目標トシ、臥薪嘗胆ノ決意ヲナシ、差当リ日米国交ノ調整ヲ為シ、所要ノ物資ヲ得ル……」


 連合艦隊司令長官山本五十六大将も、第二艦隊司令長官古賀峯一中将も、南部仏印進駐には反対だった。

「こんな重大なことを艦隊長官の考えも聞かずに簡単にきめ、万一戦争になって、さあやれといわれたって勝てません」


 しかし、軍令部総長永野修身大将の返事は無責任きわまるものであった。

「政府がそうきめたんだから仕方がないだろう」


 そればかりではない。永野総長は、七月二十九日、戦争決意を天皇に上奏した。

「物がなくなり、逐次貧しくなるので、どうせいかぬなら早いほうがよいと思います」


 天皇はいった。

「戦争となった場合、日本海海戦のような大勝は困難であろう」

「日本海海戦のごとき大勝はもちろん、勝ちうるかどうかもおぼつきません」


 天皇も輔弼責任者たちの無能ぶりを、ひどく不満に感じた。八月五日付の『東久邇日記』に、天皇の言葉が記されている。

「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南仏印進駐にあたって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかと聞いたところ、杉山は、なんら各国に影響するところはない、作戦上必要だから進駐致しますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を下し、国際関係は杉山の話と反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかりいって、どうもほんとうのことを自分にいわないで困る」


 これにたいして東久邇はこう返事した。

「陛下は大元帥でいられるほか、各関係当局から政治、外交、軍事について、いろいろ報告をきかれているのだから、とりわけ、国際関係に対して広い観点から全般的に判断されることができる。……現在の制度では、陛下は大元帥で陸海軍を統率しているのだから、このたびの仏印進駐について陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」


 しかし、すべてはあとの祭りとなった。営々として貯蔵してきた日本海軍の使用できる石油量は、連合艦隊が、一年半くらい活躍できる量しかない。いまやそのエネルギーの根源をとめられたのである。対米屈服か戦争かの、二者択一をせまられた日本は、自存自衛のため三、四カ月以内に石油を求め、南進せざるをえなくなった。


 こうして七月二日の決定は、その後つづいて行われた計四回の、御前会議の序曲をなすものとなった。間もなく、北方(ソ連)への武力行使は完全に断念され、南進が日本の進路となった。そのためには、「対英米戦も辞せぬ」ことが最高決定なのである。


 しかし、天皇の真意は、なお平和のほうに傾いている。

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