読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-1
kiji
0
1
1170823
0
フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する
2
0
1
0
0
0
0
政治・社会
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
おわりに

『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか 「性の商品化」と「表現の自由」を再考する』
[著]香山リカ [著] 北原みのり [発行]イースト・プレス


読了目安時間:8分
この記事が役に立った
1
| |
文字サイズ

香山リカ




 北原さんと何度かにわたって話しながらずっと、「私はフェミニストなのだろうか」と考えていた。


 私は、自分の生き方、考え方の基本は「リベラル派」だと思っている。『リベラルですが、何か?』という本も出したことがある(イースト新書 2016)


 では、リベラルとは何か。


 そのまま訳せば「自由主義」であり、欧米では「リベラル派」「リベラリスト」と言えば、個人主義にして市場主義経済を重要視し「小さな政府」を求める人たち、いわゆる新自由主義の信奉者を指すことが多いのだという。ところが、「日本的リベラリズム」はそうではない。「個人の重視」は基本だが、それは日本では「独裁と戦争に反対」とセットであり、さらにはそれぞれの個人を大切にするために福祉の充実や人権の尊重、平等の実現が必要だと考える。その結果として、市場主義経済や激しい競争主義にはむしろ否定的。これが日本のリベラル派であり、私もだいたいそれと同じ考えだ。


 その上で「私はなぜリベラル派か」と問うたのが先にあげた本なのだが、それに対するもっともシンプルな答えは「私は精神科医だから」である。精神科医はうつ病などの心の病に陥った人に「それはあなたが悪いのです」などと自己責任論を振りかざすはずもなく、病を得てもその人が自分らしく生きられるように、社会の偏見を取り除き、その人たちの生活や職業が保障されるような公共の福祉政策を望む。もちろん、戦争は人の命を奪うものであり、命を救う仕事である医師がそれを肯定などしたら、完全な矛盾ということになる。そういう意味で私は、「自分はリベラル派以外あり得ない」と当然のように思っている。


 さて、フェミニストのほうはどうだろう。


 本書では「フェミニストとは」という定義の話はしなかったが、もちろんリベラル派が言う「個人の尊重」には「性別や民族、人種などの属性に左右されない」という前提があるはずで、その意味においては私はフェミニストと言ってもよいだろう。もっと簡単に言うと、女性が不当な差別を被ったり、自分が言いたいことややりたいことを「女性だから」という理由でがまんしなければならないのは、どう考えても個人として尊重される生き方ができているとは思えない。それにはもちろん反対だ。


 とくに、国家によって仕掛けられた女性差別、女性の権利剥奪、さらには積極的な被害に対しては、なんとしてもそれを可視化し、加害側には強く反省してもらわなければならない。だから、北原さんが語ってくれた従軍慰安婦の問題については、全面的に共感、同意できた。


 しかし、男性中心社会、家父長制社会の産物、影響と思われるあらゆる文化、制度、慣習までを否定すべきか、と言われたらどうか。その点について、対談の中で何度も違いが浮き彫りになったのではないだろうか。


 たとえば、私は北原さんが問題視した一連のAV作品(それが話題になった90年代には“社会派AV”などと呼ばれてもいた)が世に出たとき、「これは既成のボルノグラフィの概念を破壊するものだ!」とおおいに評価した。たしかにいま考えると、ドキュメンタリー色を出すため、説明せずに女優を監禁に近いような状況に置いたり、男優でもない路上生活者の男性とのセックスを強要したり、ひどい演出が多かった。それが女性の「個人の尊重」かと言えば、全く違うだろう。しかし、当時の私には、それは「AVといえばあり得ないファンタジーのような物語の中で男女がキレイごととしてのセックスをする」という紋切り型パターンを拒絶し、人間の真の姿を生々しく描こうとした挑戦的な作品に見えたことも事実なのだ。


 会田誠さんの少女を描いた作品をめぐっての解釈や、サブカルの一ジャンルを占めたロリコン漫画をどう考えるかなどについても、考えは若干、違った。それらが芸術や文化であっても、そこに男と女の権力の差、支配と被支配、加害と凌辱の関係を感じると、ひと目見て「怖い」「気持ち悪い」と感じる北原さんのデリカシーのようなものが、私には完全に欠落している、と思った。


 つまり私は北原さんと同じように、「男も女も平等に権利と機会を与えられるべき」とは思っている。政治的、社会的、経済的に女性は男性と対等であるべきであるし、それが達成されていないなら、そうなるように政府、行政、企業、学校などは努力すべきだとも思っている。


 しかし、それを「文化」にまで適用してよいか、ということだ。あるいは、「個人の尊重」を唱えるリベラル派として、そこで「個人の選択」をどう考えるべきか、ということだ。


 意見が完全に一致したとは言えなかったことのひとつに、セックスワーカーをめぐる議論があった。フェミニストの中にも、セックスワーカーの権利を認めるべきと主張する人たちがいる。その人たちの考えの基本は、セックスワーカーはその人たちが「自己決定」して選んだ仕事だということだ。もちろんセックスワーカーの権利が認められないこと自体間違っているが、その中には従軍慰安婦のように国家に強要されてそうせざるを得なかったり、いま話題の「AV強要問題」のようにだまされたり脅されたりしてその仕事についている人もいる。親による虐待などの結果、男性からの評価によってしか自己肯定できなくなって、それを求めてその仕事につく人もいる。その点について北原さんは繰り返し、文献や取材の経験などをもとに話していた。


 私は、精神分析学的な視点からそもそも「自己決定」の「自己」というのをあまり信じていないのだが、だからといってセックスワーカーを一方的に搾取された人だと決めつけてよいのか、という逡巡がある。そのあたり診察室で会ったり個人的な友人だったりしたセックスワーカーたちの顔を思い浮かべながら、「たしかに彼女は本当にそうしたくてその仕事についていたわけではない」と言い、ただ一方で「でもやっぱり、そういう仕事を自ら選び取ってそうしている人もいるのでは」と思いながら、ついに自分の見解を絞り切ることができなかった。


 おそらくゲーム、漫画、プロレスなどのサブカルにどっぷりつかっていた私は、人間をあえて「オタク」と「非オタク」に分けると明らかに前者なのだと思う。オタクは、世の中の保守本流をいつもちょっと離れたところから横目で眺め、自分たちがそこに躍り出ることもできないくせに、「これじゃダメだよ」などとツッコミを入れたりする。だからつい、地方の自治体がこれまでの毒にもクスリにもならないようなご当地キャラクターを捨て、なんだか妙にエロチックな「萌えキャラ」を作って発表したりすると、「何が起きたの!? お役所がこんなの作っていいわけ!?」とどこかテンションが上がってしまったりするのだろう。「いや、待てよ。このサイズが小さくてからだに貼りついたようなコスチュームは、男性が自分の性的な欲求のために無力な少女に無理やり着せているものなのでは?」とフェミニズム的な視線を自分で取り戻すことができるのは、その一拍あとのことなのである。


 頭では、女性とくに自己決定が難しい年齢の少女が男性の性的な視線に晒されたり、性的な欲望の対象になったりすることがあってはいけない、ということはわかっている。しかし、「ありとあらゆる場面、表現、文化であってもそれは絶対にダメなのか」と言われると、うなずいてよいかどうかがわからなくなる……。これが、フェミニストとオタクの間の溝になっているのではないだろうか。


 では、その溝はどうやって埋めればよいのか。いや、そもそも埋められるべきものなのか。それに対して、本書の中でたしかな答えまで到達することはできなかった。これは今後の私の重い宿題である。


 フェミニズムの予備知識もないまま対談に臨んだ私に、丁寧に気長に歴史から現状までを話してくれた北原さんには、心から感謝したい。ひとりの友人としては、いろいろな被害を受けても声をあげられない女性たち、社会の理不尽さを味わっている女性たちを守り、言論の場でときには様々な社会活動の場で顔を出し名前を出して闘う彼女、それでいていつもたおやかな笑顔やしぐさで心をなごませてくれる彼女を、心からリスペクトしている。


 また、本書の企画から構成、対談のセッティング、本にまとめる作業まで、ずっとお世話になったイースト・プレスの藁谷浩一さんにもお礼を言いたい。藁谷さんはフェミニスト派かオタク派か、そのどちらでもないか最後までわからなかったけれど、北原さんを交えた打ち上げの場ででも尋ねてみたいと思っている。


 そして最後に、本書が女性だけではなく男性やそれ以外の人たちにも手にとってもらえて、いろいろな議論の端緒になることを願って、この楽しくもハードボイルドな対話のあとがきを終えたい。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
1
残り:0文字/本文:3578文字
      この記事を収録している本
      レビューを書くレビューを書く
      この本の目次