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「自分の力」を信じる思想
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生き方・教養
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まえがき

『「自分の力」を信じる思想』
[著]勢古浩爾 [発行]PHP研究所


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──人生をまっとうする「力」


 六年前、野茂英雄がメジャーリーグに挑戦したとき、野球評論家やマスコミは口々に「通用するはずがない」と騒ぎ立てた。だがその後、野茂の大活躍を見せつけられたとあって、さすがに今年のイチローの場合はちがった。口調は似ているが、「はたしてどこまで通用するのか(楽しみだ)」と多大な期待が寄せられたのである。ただ新庄剛志の場合は悲惨だった。ほとんど「通用以前」とでもいうように、きわもの扱いされ失笑されただけだったからである。
「通用する」とは、もちろん「力」が、である。野茂やイチロー(佐々木や長谷川も)はその「力」が優にメジャー級であることを証明し、サッカーの中田英寿はかれの「力」が世界レベルであることを証明したのだ。かれらは「自分の力」が世界でどこまで通用するか試してみたい、「力」と「力」の真っ向勝負がしてみたいと切望して海を渡った。


 いうまでもないが、わたしたちは野茂やイチローや中田ではない。だがわたしたちにも「自分の力」はある。かれらの「力」が世界レベルだとすると、こちらの「力」がどのレベルに相当するのかは知らないが、一人ひとりの「自分」にとっては、かれらとまったくおなじ価値と意味をもった「自分の力」だ。称賛もない。興奮もなければ華々しくもない。しかし、いまあるこの社会のなかで生きていくために、わたしたちは「自分の力」を欲し、獲得し、発揮しなければならないのである。

 生まれたときから死ぬまで、人生のあらゆる場面で、わたしたちは「力」に囲まれ、「力」を求められている。

 上司たちが、ある社員を「最近、かれは力をつけてきたな」と評価する。部下は上司を「かれには決断力がある」と憧憬(どうけい)する。スポーツ選手はインタビュアーに「ふだんの力がだせれば結果はついてくると思います」と答える。親は子どもに「あなたはやればできるのよ」と激励する。子どもは親に「できねぇものはできねぇんだよ」と反発する。部下は「力不足でした」と反省する。千代の富士は「体力の限界」といって引退する。評論家は「かれの実力はこんなものじゃない」と叱咤(しつた)する。ひとは、「おれのほんとうの力はこんなものじゃない」と自分に言い聞かす。
「力」のあるものは自信に満ちている。陽のあたる道を歩き、名を成し、出世をし、より多くの収入を得、人生に「成功」する。だがわたしたちは、たとえ「成功」しなくても、自分の「無力」や「非力」だけは認めたくない。ひそかに認めても、他人からはけっして指摘されたくないのだ。自分という存在が公然と敗退することになるからである。

 一昔前は「モーレツからビューティフルへ」、またついこの間までは、弱者だの平等だの福祉だの共生だのと言っていたのが、いまや露骨な自己責任と実力主義と生存競争が前面にせりだしてきた。この「力」の支配や競争を否定するものは、「自分らしく生きる」とか「がんばらない」とか「このままの自分でいい」などと言って、人生の競争ゲームから降りていく。「だめ」でいいではないか、「弱い自分」でいいではないか。そのかわりこっちには、もっと自由で豊かで気楽な人生がある、と言うのだ。だが、その勝手(自由)や怠惰(気楽さ)がハタ迷惑にならず、そのような生き方に責任をもつためにも、最低限の「自分の力」は必要である。身銭を切らない人生などあるはずがない。


 現在の日本社会は、勝ち組と負け組、金持ちと貧乏人に二極階層化しつつあるといわれる。「まじめ」や「努力」はもはや意味をなさない。勝つ者は勝つべくして勝ち、負ける者は負けるべくして負ける社会の出現である。それはまた「力」の意味を信奉して「他者よりも優越した人生」を送ろうとするものと、「力」を否定して「自分なりの楽で自由な人生」を送ろうとするものにわかれるということでもある。

 しかし、本書の「自分の力」が目指すのはその中間である。人生の「勝者」になることや「成功」が「力」の最終目標でもなければ、「好きなこと」だけをして気楽に生きていこうというのでもない。それは、依然として「自分の力」でひたすら努力し、「まじめ」に全力で生きていくことに意味がある、という道だ。そこにしか意味がない、という道だ。「自分の力」とはそのように覚悟する「生きる力」であり、結果としての「成功」も「気楽」もどうでもいいのである。

 もちろん野茂やイチローの「力」は称賛に値する。だが新庄は莫大な収入や安定した地位よりも、夢にけるといった。笑われても期待されなくてもいい、そのほうがむしろ闘志が湧くといったのである。シーズン終了後に新庄がどんな成績を残すかはわからない。「成功」するかしないかはあくまでも結果である。「自分の力」はその過程をささえる力であり、その姿勢をささえる力である。「自分の力」は自分を動かして自分の意味を証明する。他人にではなく、自分に力をふるって、人生を推し進め、後退を食い止め、自分をささえる。それが「生きる力」ということの意味である。たしかに新庄はアホっぽく見える。しかしかれの姿勢はそれじたいで称賛に値するのだ。


 人間には、自分を証明したいという根源的欲求がある。自分という存在の意味を、他人にも自分じしんにも証明したい。そうして、社会から、会社の上司や同僚や部下から、親から、友人から、また異性から承認されたい。それが「自分の力」の願いである。この「力」のない者は動揺する。「力」を欲しながら「力」を否定する(ふりをする)者、「力」をつける努力を放棄した者は、シニカルで陰険で卑怯でわがままになりやすい。かれらは他人の「力」を(けな)し、そのくせ他人の権威を自分のものにしたがる。それはかれらの欲している力が自己顕示的でものほしげな「力」だからである。「自分の力」はけっして「他人の力」を妬まないのだ。
「自分の力」は能力至上主義でもなければ実力主義でもない。当然、それは他人から承認されることを保証しない。人生の成功も勝ち組になることもまったく保証しない。けれども、「自分の力」を尽くそうとすることはそれだけで意味がある。極論すると、それしか意味がないといってもいい。先にもふれたが、いまの日本は「努力してもしかたがない(する気になれない)社会」になりつつあるといわれる。だがそれがどうしたというのだろうか。それで自棄(やけ)になって乱暴狼藉(ろうぜき)をして「社会のせいだからな」と(うそぶ)くことが正当化されるわけでもあるまい。どんな社会になろうと、またどんな時代になろうと、努力することには断固として意味がある。努力した者には、それを放棄した者より確実に「自分の力」がつくのだ。

「自分の力」が欲しくても、環境や制約や障害によって「力」をつけることができないひとがいる。また、どんなに努力しても「力」が伸びない(ふつう、そんなことは絶対にない)というひとがいる。そうでなくても、自信があった「自分の力」もいつかは失われる。だれにも必要とされなくなるときがくる。そういうことはかならずある。
「自分の力」がみずからの限界を知るとき、あるいはその社会的な意味を失うとき、あとに何が残るのか。「信じる力」が最後に残ってくれればいい。「自分の力」の意味を最後まで「信じる力」である。「自分の力」は、まっとう(真っ当)な人生を目指すのではない。精一杯の「自分の力」で、自分の人生をまっとう(全う)することだけを目指すのである。まっとうな人生などない。まっとうする人生があるだけだ。
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