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「自分の力」を信じる思想
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生き方・教養
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あとがき

『「自分の力」を信じる思想』
[著]勢古浩爾 [発行]PHP研究所


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──「僕を大事にして」


 トム・クルーズ主演の『マグノリア』(ポール・アンダーソン監督)という映画を見た。評判は高かったようだが、何万匹ものヒキガエルが雨のように空から降ってくる場面と、もうひとつの場面を除いては、「金を返せ」と言いたくなるような(といってもレンタルビデオだから安いが)、まるでおもしろくない映画だった。

 その、もうひとつの場面とはこのようなものである。

 記憶力に優れた小学生くらいの子どもが、テレビのクイズ番組で何週か勝ち抜く。まだ若い少年の父親は、もうすこしで大金が転がりこんでくると必死である。「(もう、うるせぇな)愛してるよ」と口先だけで言いながら、子どもを叱咤(しつた)する。で、勝ち抜きの最後の週だったか、子どもは肝心の問題のときに、オシッコを我慢できなくなる(この(ひつぱく)した気持ちは身に覚えがある。死にたくなるほどつらい)。テレビ局のスタッフに訴えても、本番中だからと取りあってもらえない。ついに我慢できずに漏らしてしまう。すべてが台無しになったことで、バカ父は控え室で子どもを怒鳴りまくる。そのとき子どもが、泣きそうな顔で言うのである。
「僕を大事にして」


 この言葉は(こた)えた。だが現代の親は、自分だけを「大事」にするのである。「子どもより親が大事」なのではない。つまりかれらは「親」なのではない。何歳になろうと、いつまでも腑抜けた「自分」なのだ。子どもを愛する親がいる。ほんとは自分を愛しているのだ。けれども、あまりにも「大事」にされすぎて、何時(いつ)どんな場面でも自分が「大事」にされないと発狂する子どもが出現しはじめる。そして、そのまま育ってしまったおとながいる。「愛」と「大事」のちがいもわからないまま、だれもかれもが、とにかく自分だけ「大事」にされたいのである。

 なぜこんなことになったのか。もう全部が全部、「自分の力」がないことがその原因である、とわたしは考える。(くだん)の記憶力少年の言葉はもっともである。なのに子どもそっちのけで、親やおとなが「わたしを大事にして」と叫んでどうするのだ。わたしたちにとって大切なことは、このような「少年」を「大事」にすることである。

 世界中の全員が全員「僕を大事にして」といっている。しかしそれでは、「大事」にしてやろうという人間が世界にひとりも存在しなくなる、ってそんなバカな! いったいだれに「大事」にしてもらうつもりなのか。わたしたち一人ひとりが「大事にされたい人」になるのをやめて、「大事にする人」になるのである。これが「おとな」になり、「親」になるということだ。そして、もしそういいたければ、それが「自分」になるということである。

 そのために必要なこと、それが「自分の力」だ。人間はたしかにひとからの承認を求めている。だが、「承認される力」などありうるはずがない。言葉としても成立しない。「自分の力」は、ひたすら他人からの承認を待ち受けるために必要な、さもしい「力」なんかではない。その対象が他人であれ自分であれ、あくまでも「承認する力」なのである。そういうことを本書で書いた。


 けれども、このような疑念がある。「自分の力」は、ほんとうのところどこまで「力」があるのか。たとえば、失業して、どうしても仕事が見つからない。やっとアルバイトの口を見つけたが、家族四人が食べていくためには焼け石に水でしかない。どんなに頑張っても、もうどうにもならない。外を歩くと、みんな裕福で幸福そうに見える。一生懸命働いてきたのに、もうホームレスになるか、死ぬしかないのだろうか。それとも生きるために犯罪を犯すしかないのか。このようなとき、はたして「自分の力」はどうすることができるのか。

 実際に自殺をするひとがいる。犯罪を犯すひとがいる。全力を尽くして、それでも八方ふさがりで自殺するひとにたいしては、わたしなんかがいうべき言葉はない。「遊ぶ金欲しさ」に平然と犯罪を犯す(やから)は論外だが、「生きる」ために犯罪(傷害、殺人ではなく)を犯してしまう者にたいしては、断罪する気になれない(だが不思議なことに、「生きる」ために犯罪を犯す者は稀有(けう)なように感じられる。たいていのひとは犯罪よりも、みずからの死を選ぶようなのだ)。

 このような絶対的な苦境にたいして、「自分の力」になにが可能か。正直に、わからない、というほかはない。残念なことだが、わたしは人生に真に絶望したことがないのだ。このような者に、なにかがいえるはずはない。そういうときは「つぶれればいい」とわたしは本文で書いている。あるいは、そこまで「覚悟」するのだ、と。

 しかしほんとうをいえば、わたしが「つぶれる」ということのひりつくようなリアルさを知っているわけではない。だとするなら、このようにいわなければならないのかもしれない。「自分の力」とは刀折れ矢尽きて「つぶれる」までの「力」である、と。はたしてそのときに、「自分の力」を「信じる力」が最後まで残りうるものなのか。こういうところまでは、あまり本書では書けなかった。

「戦力外」という露骨な言葉がある。元々はプロ野球からでてきた言葉だとおもうが、いまでは会社でふつうに使われている。「おまえには戦うだけの力がない」、あるいは「われわれはおまえの力をまったく必要としない」と宣告されるのだ。有無を言わせぬ解雇通知である。だが人間はそれでも「戦う」のである。

 本文でもすこし触れたが、日本のプロ野球を解雇された選手は、台湾野球や韓国野球に活路を見出そうと必死だ。野茂英雄のはるか以前、江夏豊は恥も外聞もなくメジャーテストに挑戦した(誇りであれこそすれ、恥であるわけがない)。かつて近鉄で野茂の同僚だった佐野投手もまた、国内の入団テストがことごとく不採用に終わったあと、メジャーに挑戦するべくアメリカに渡った。数年前、「キング」と呼ばれたサッカーの三浦知良もまた、「自分の力」が必要とされる場所を求めて東欧にまで行ったのである。
「自分」の感情と欲望だけに支配されて、「人間」の意味が極まったようなろくでもない事件が相変わらず多発している。「おとな」にも「親」にも「男」にも「女」にもなれず、結局ただのつまらぬ「自分」にしかなれなかった人間が激増しているとしかおもえない。しかしそれでも、可能なかぎり「自分の力」を追求し、その「力」を信じ、その場所を求めつづけている多くの有名無名の人々がいる。「自分の力」などまったく特殊な能力ではない。まじめに考え、ひとつのことに集中し、「真の面目」を保つように生きれば、だれもが身につけることのできる「力」なのである。

 もちろん「自分」は大事である。いうまでもないことだ。しかし、「自分」だけが後生大事など、さもしい話ではないか。むずかしいことだが、ひとを「大事」にできる者だけが、自分を「大事」にできる。そういうことを書きたかった。

「あとがき」にしては、重い「あとがき」になったかもしれない。しかし、世相を見ているととても軽い気持ちにはなれない。みだりに明るさを語る気にもなれない。一人ひとりの「自分の力」だけが残された唯一の希望である。

 なお本書の成立に関しては、PHP研究所学芸出版部の三島邦弘氏に大変お世話になった。記して感謝申し上げたい。

二〇〇一年 九月

勢古浩爾
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