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和辻哲郎と昭和の悲劇 伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人
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生き方・教養
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第一章 問題の発端─敗戦と被占領

『和辻哲郎と昭和の悲劇 伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間13分
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一 心理戦争の開始


「太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情けない姿をさらけ出した」



 戦争末期に東京大学文学部倫理学研究室を中心として十人程の教官が始めていた近世史の研究会があった。


 その指導的位置にいたのが和〓哲郎で、彼は昭和十一・二年の頃と回想しているが、丸善からスペイン人ホセ・デ・アコスタの『インドの自然及道徳史』の一六〇四年の刊行になる英訳本の購入を奨められたことが機縁となって、この書の価値を検討するためにそれまで予備知識が皆無であったこの著者の書をともかくも読んでみた。そして研究対象としてのこの領域の重要性にいわば眼を開かれた。かつ購入可否の検証のため所蔵本の重複調べをしてみると、東大の図書館には大正大震災後に図書館復興のために英国から寄贈されたものとしてハクルート協会刊行のいわゆる大航海時代叢書のうちの半数に近い四十四・五冊が既に収蔵されてあった。


 航海史家として高名な存在であったリチャード・ハクルートの業績を導標としての東大文学部有志の人々による、西力東漸の世界史的趨勢に主眼を置いての近世史の再検討という計画には、こうして(つと)に条件は整っていた。


 和〓自身が、自分たちは「研究」の名に値するほどのことをやったのではない、と正直に述べているが、実際その共同研究は綿密な読書会という形のものではなかったかと察せられる。


 ただこれも和〓自身が回想している通り、広範囲にわたる資料を成員各自が分担して読み、それらを相互に関連づけ、統一的な意味を抽出してそれを一書に概説するという作業は、共同研究の統括者にとって相当に骨の折れる仕事であったろう。


 戦時中に始められた研究ではあったが、それが和〓の手によって『鎖国─日本の悲劇』との題を付して出版されたのは昭和二十五年の四月、筑摩書房からであった。この書は和〓の没(昭和三十五年十二月、七十一歳)後、昭和三十九年五月に、筑摩叢書の一冊として普及版が刊行された。


 私が初めて『鎖国』という著作に触れたのはこの昭和三十九年版を通じてである。その当時私は大学院生の身分であったが、既に前年に二年間のドイツ留学を終えており、東西ドイツの分裂とそれに関わる自由主義陣営と社会主義諸国との(けわ)しいイデオロギー上の対立といった国際政治の現場の実況にも触れて多少の知見を蓄えていた。それゆえに久しぶりに接した日本の学問世界のいわゆる戦後的現象に違和感を覚える機会がはなはだ多かった。


 この「戦後的現象」とは何を指すのか、説明が冗長になることを恐れて詳説を避けるが、あえて一言をもって表現してみるならば日本の過去、特にさきの戦争に対する反省・悔恨・(じゆ)()の言説の氾濫と、その説を口にする人々に決って見られる道徳的優越の表情である。というよりも、祖国の歴史に対する傲慢な批評的言辞を(もてあそ)ぶことで、己の優越性を手にし得るかのような当時の一部の、あるいはかなり多くの、知識人の品性に対する深い疑惑である。


 そのような懐疑と不信の情に囚われている心理情況の中で、筑摩叢書版の『鎖国』を(ひもと)き始めた。和〓哲郎といえば、それまで高名な『古寺巡礼』の他に「尊皇思想とその伝統」「日本の臣道」「国民統合の象徴」といった論文を読んでいて、上記の軽薄なる戦後的現象の暗夜の中で、我ら日本国民の踏むべき途の行手を示してくれる一本の(きよ)()を見るごとき信頼を覚えていた。


 それだけに同書の「序説」の冒頭に、よく知られているであろう次のごとき一句が打ち出されているのを読んだ時には驚いた。いわく、〈太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情けない姿をさらけ出した〉と。


 この〈実に情けない姿をさらけ出した〉には一点の留保もない同感なのだが、そこで私の内部に「ちょっと待て」の声が上る。和〓の用いている〈太平洋戦争の敗北〉という語句それ自体が、他ならぬその〈情けない姿〉の一端なのではないか、との呟きである。


謀略的宣伝の所産としての「太平洋戦争」という呼称



 昭和十六年十二月十二日に、日本帝国政府は十二年七月以来の支那事変と、新たに始まった米英蘭濠等連合国を相手の戦争をまとめて「大東亜戦爭」と公式に呼ぶことを閣議決定をもって公布した。ゆえに我々日本国民が昭和二十年九月二日の停戦協定成立まで戦っていた戦争は大東亜戦争である。


 二十年十二月十五日付で米占領軍の発した「神道指令」は「大東亜戦争」「八紘一宇」なる具体例を呈示して、国家神道、軍国主義、過激なる国家主義を連想させる用語は〈公文書ニ於テ〉使用することを禁ずる、〈カカル用語ノ即刻停止ヲ命令スル〉と通達した。


 この「神道指令」はいわゆる占領行政の一環としてのポツダム政令の一例であるから昭和二十七年四月二十八日の対連合国平和条約の発効をもって失効した。そうでなくとも、「神道指令」とてその用語を〈公文書ニ於テ〉用いることを禁止したのであるから、民間人が私的文書でこの語を用いるのは自由である、との主張は成立するはずであった。また「八紘一宇」が過激なる国家主義などとは全く関係のない四海同胞主義、諸外国との善隣友好思想の標語であると認めさせたことは、他ならぬ極東国際軍事裁判の法廷で、弁護側が検察団の日本非難に対して言論戦の上での勝利を博し得た、まことに数少い事例の一である。

「大東亜戦争」にしても、戦争中はかえって「ニューヨークタイムズ」等のアメリカのジャーナリズムでさえ、日本側がこれをGreater East-Asian War(この比較級語尾が重要である)と呼んでいることを客観的公正さをもって報じていた。これを「太平洋戦争」と呼ばせたのは要するに米合衆国が、対日戦争に引きずり込んだ五十数カ国の「連合国」(=「国際連合」)に対し、この戦争は太平洋における米国が主役の戦争だったことを周知徹底させるために占領軍総司令部が仕組んだ謀略的宣伝の所産である。


 戦後の知識人社会において、対連合国戦争を我が国の公定名称である「大東亜戦争」と呼ぶ見識を有するか否かをもって、同学の士が共に歴史を語るに足る相手であるか否かを秘かに測定する試薬として用いていた一派の人がいたようである。少年時代の私もその部類に属していた。


 だから、内心で敬愛していた和〓が〈太平洋戦争の敗北によって日本民族は実に情けない姿をさらけ出した〉との一句であの長大な考証の成果を語り始めていることへの違和感、むしろ困惑の感はかなり根深いものだった。それは著者が元来昭和二十五年二月という占領継続中に序文を(かく)(ひつ)している著書の普及版である以上、著者よりも出版社側の占領軍監視体制への畏怖、あるいは既に自身の体質となっていたと思われる自己検閲の規制が厳しかったゆえであろうことは理解できる。しかしそれならば、「太平洋戦争」といわなくても、他に検閲の眼を逃れるための表現はいくらでも工夫できたであろうに、というのが私の率直な感想だった。


 あるいはこの呼名を知識人社会に定着せしめたのは、昭和二十年十二月八日に全国の新聞に一斉に連載が開始され、否応なく国民の耳目に叩き込まれることになった「太平洋戦争史」の効果、及び新聞よりも、連載終了後、昭和二十一年四月に中屋(けん)(いち)の訳により〈(ママ)合軍総司令部民間情報教育局当局の厳密なる校閲を仰いだ〉上での出版だという高山書院版『太平洋戦争史─奉天事件より無条件降伏まで』の影響力によるものだったかもしれない。


 この副題を見ただけでこれが一篇の歪曲に満ちた宣伝文書に過ぎないことがわかるのは、それはさすがに約六十年の「歴史修正」の努力が然らしめたところであって、このとんでもない歴史偽造の悪書にも刊行当初にはそれなりの衝撃力はあった。そして和〓も結局はその呪縛力から免れ得ない位置にいた、ということだったのだろう。


日本の知識人社会に浸透した根深い害毒


『鎖国』を読んでより遙かに後になって知ったことであるが、和〓は昭和二十一年三・四月合併号の『思想』に「人倫の世界史的反省─序説」というやや誇大な標題の文章を発表している。そこでもやはり四年後の『鎖国』と同様の反省的慨嘆が、より具体的例示を挙げて書き出されている。『鎖国』の序説はこの論文の増訂版のごとき性格を()つ。

〈太平洋戦争の敗北によって近代日本の担っていた世界史的地位は潰滅した。かかる悲惨な運命を招いたのは、理智に対する蔑視、偏狭なる狂信、それに基く人倫への無理解、特に我国の担う世界史的意義に対する恐るべき誤解などのためである。我々はこの苦い経験を無意義に終らせてはならぬ。平和国家を建立し、文化的に新しい発展を企図すべき現在の境位に於て、何よりも先づ必要なのは、世界史の明かなる認識の下に我々の国家や民族性や文化を反省することである〉


 ここに述べられている〈反省〉の諸契機が具体的なだけに、一読した時の内心に生ずる抵抗感は『鎖国』の「序説」冒頭よりさらに大きかった。和〓の示唆に従った結果としてここにいう〈世界史の明かなる認識〉を自分なりに深めてゆくにつれ、私の得た結論は和〓の予想ないし期待した〈反省〉とは対極的な方向に展開してゆくことになる。


 それを思えば『鎖国』序説の冒頭に続く、以下のごとき、悲境に陥っている民族への〈力づけ〉の試みだとしている〈欠点の指摘〉の方が、留保付きながら、まだしも共感できる所があった。いわく、

〈しかし、人々がいや応なしにおのれの欠点や弱所を自覚せしめられている時に、ただその上に罵倒の言葉を投げかけるだけでなく、その欠点や弱所の深刻な反省を試み、何がわれわれに足りないのであるかを精確に把握しておくことは、この欠点を克服するためにも必須の仕事である。その欠点は一口に言えば科学的精神の欠如であろう。合理的な思索を蔑視して偏狭な狂信に動いた人々が、日本民族を現在の悲境に導き入れた。が、そういうことの起こり得た背後には、直観的な事実にのみ信頼を置き、推理力による把捉を重んじないという民族の性向が控えている(後略)〉(傍点、原文)


 右に引いた〈直観的な事実にのみ〉という所を「希望的観測にのみ」といった表現に置換えて読めばこれは現在の私にも概ね首肯できる判定ではある。それを〈科学的精神の欠如〉と呼ぶのも一応の理ではあろう。だがその反省の結果として『鎖国』全篇のあの長大な叙述が呈示され、その結論として、〈為政者の精神的怯懦のゆえ〉に、〈日本人は(世界史の)近世の動きから遮断され〉、〈新しい時代における創造的な活力を失い去ったかのように見える。現在のわれわれはその決算表をつきつけられているのである〉という断罪が来るのは到底承服することのできない独断である。第一〈失い去ったかのように見える〉(傍点、引用者)のを根拠として、上のごとき断定を下すのは、つまりは学術的思索ではない。むしろ〈かのように見える〉けれども、それは事実その通りなのか、が問われるべきなのであり、むしろ日本の近世への反省的問いかけは、はたしてそうなのか、との反問から出発しなければならない、というべきであろう。


 ここにも私は(ひつ)(きよう)『太平洋戦争史』に代表ないし代弁されるアメリカ国務省の公式声明文書「Peace and War, United States Foreign Policy 1931-1941」(昭和二十一年八月協同出版社より『平和と戦争』の題で邦訳出版、原書には一九四三年一月二日付であのコーデル・ハルが序文を書いている)の対日敵意に満ちた宣伝が、いかに日本の知識人社会に根深い害毒を浸透させたものかを深刻に認識せざるを得ない。


ミズーリ号での停戦協定以降も「戦争」は続いた



 昭和二十年九月二日に日本帝国政府は東京湾に進入してきた戦艦ミズーリ号艦上でアメリカ合衆国を代表とする連合国九カ国(アメリカ、中華民国、連合王国〔イギリス〕、ソヴィエト、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド)代表との停戦協定に調印した。


 それによって武力による闘争としての戦火は終熄したが、その代りにただちに開始されたのが日本国軍事占領という形をとっての宣伝と謀略的情報を手段としての追撃戦だった。停戦とは日本の軍隊の組織的抵抗が終ったことだけを意味し、米軍を主体とする占領軍の情報戦による追撃は二十年九月を以て本格的に始まっている。


 連合国は、七月二十六日付のポツダム宣言において、米英華三国が〈日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ〉といった表現を用いた。この宣言を日本国が受諾することにより、停戦が実現したことから、日本国民はこの事実をつい「終戦」と呼ぶ慣例を作ってしまった。ポツダム宣言を受諾することによって戦争終結の手続を開始せよと政府に命じられた昭和天皇の詔勅にしても、単に簡潔を旨として「終戦の詔書」と呼び慣わしたために、この詔書が国民に布達された二十年八月十五日を以て(詔書の御名御璽の日付は八月十四日)「終戦」が実現したかのように思いあやまった。


 しかし、九月二日に調印されたのは戦闘行為停止の協定であって、戦争自体の終結を承認したわけのものではない。実体としての戦争の終結は日本対連合国の間の平和条約が国際法上の効力を発現した昭和二十七年四月二十八日のことであり、その日までの約六年八カ月は、軍事占領という形での戦争の継続である。

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