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和辻哲郎と昭和の悲劇 伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人
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生き方・教養
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第二章 再検討・大正教養派

『和辻哲郎と昭和の悲劇 伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:43分
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一 大正デモクラシーの実体


占領軍への無抵抗は「世代」の問題?



 現在本書の著者が考察の対象として問題にしているのは、大東亜戦争停戦直後に日本の各界の指導層を形成していた人々が、占領軍による日本伝統破壊工作の暴挙に対してなぜあのように無抵抗でいられたのか、という疑問である。それは昭和二十年から二十一年にかけて当時小学校六年生を()えて旧制中学一年に進んだ少年の著者の眼にさえも、あまりに従順にすぎる、むしろ迎合というものではないか、との解きがたい謎として深く記憶に()きついた。その不可解さが七十年余を経ての今日まで、いわば国民の多くが心の底深く共有する精神的負傷の傷痕として(うず)くのを覚えるからである。


 その答を求めて現代史史料の分析にかかるより以前に、一種の直観をもってしての説明の試みがある。すなわち、あれは一つの「世代」の問題ではなかったのか、との仮説である。


 史料分析というほどのことではない、単なる国民の集合的記憶として分有するその表層部に、ポツダム宣言の中のある章句が浮かび上る。それは停戦条件として挙げてある七箇条の要求の中の一つで、通算第十項の中に見られるもので、〈日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ〉という(くだ)りである。


 これを読めば、米国側も、かつて日本国民の間に、アメリカ人の(ふい)(ちよう)する民主主義的傾向は存在し、それは言論、宗教、思想表現の自由を含むものであることを認め、それが総力戦遂行の必要上各種の制限に遭っていたのだが、今や抑制の必要が解けたのであるからその復活とさらなる強化に意を用いよ、との激励とも読める要求であることが判る。


 これは停戦条件としては、難題であるどころか、むしろ当方とても望む所である。彼らが挙げているような各種の自由は、元来日本国民が憲法の保障を受けて十分に享受していたものであって、それを自ら抑制していたのは戦時体制という非常時のやむを得ざる必要上からにすぎない。そこで日本国民がかつて有していた民主主義的傾向の復活に言及してくれたのはむしろ有難い次第である。このあたりのポツダム宣言が(はら)む含蓄に戦前のジョセフ・グルー駐日大使の日本への好意の(いち)(まつ)を嗅ぎとった知識人は多くいたであろう。


 これがあるいは日本人をして降伏=敗戦という悲劇的事態に対して一種の気の緩みを覚えさせる効果があったとすれば皮肉な話であるが、ともかくそうした効果はあった。敗戦後の日本の国家として路線はこの方向を取れば、このどん底からの再生は有望である、との教示を読み取って希望を抱いた知識人もたしかにいたはずである。


 かつて日本国民の間に存した民主主義的傾向、という文脈に接した時、人々が想起したのは当然ながら、「大正デモクラシー」の名で呼ばれていた一時の風潮である。アメリカ合衆国国務省の側から、あれを復活させればよいではないか、との示唆を与えられた時、その時代と風潮とを自ら経験していた世代、殊に、自分もまたその風潮を醸成し推進する側にいたのだ、との自負を抱いていた一派の人々にとって、昨日までの暴逆の(おん)(てき)たる米占領軍が、あの傾向の復活強化を妨げる一切の(しよう)(がい)の除去に力を貸してくれる解放軍であるかのごとき幻影が脳裡を(かす)めて通ったということはあったかもしれない。


大正教養派が占領軍に見せた「強者への迎合の心理」



 そこで、大正デモクラシー及びその風潮を醸成し担っていたと後世から思われ、自らもまたそれを意識していたらしい、いわゆる大正教養派の世代とは一体何だったのであろうか。


 昭和天皇は明治三十四年のお生れであるから、昭和二十年には(ほう)(さん)四十五で、やや若くはあるが国家と国民の安危を一身に担われる壮年の身であられた。この天皇を目安として考えてみるに、当時国政の中枢部にいて天皇の大権(そう)(らん)を補佐していた大臣や将軍たちは、概して明治二十年前後から三十年代半ば頃までに生れ、大正期に青年としての修業時代を過した、いわゆる大正教養派に属する世代の人々であったと思われる。


 そうだとすれば、この世代の人々が占領期に見せたあの()()()ない無抵抗と強者への迎合の心理には、案外この世代が身につけていた教養と無関係ではない、むしろある種の自然な因果関係があるのではないかとも思われてくる。


 これが大正教養主義の正体なのか、との苦い疑念の記憶としてただちに思い浮かぶのが、志賀直哉が昭和二十一年四月雑誌『改造』に「国語問題」と題して発表した暴論、というより妄人の妄語というより他ないフランス語採用論である。


 志賀はその論策の中で、明治六年に森(あり)(のり)が英語をもって日本人の国語とする案を公表したことを戦争中にたびたび思い出した、と言い、もしあの案が実現していたら今度のような戦争は起っていなかったであろう、との(たわ)(ごと)を臆面もなく筆にし、このたびの敗戦を機会に、フランス語を国語として採用し、この形で六十年前(実際は約七十年前)の森の提案を実現してはどうか、と書いた。〈今ならば、実現できない事ではない〉と言っているのはスターリンも顔負けの火事場泥棒的発想である。この発想がやがて米国教育使節団報告書の漢字廃止論を(こう)(かつ)()きつけ、かつその(びゆう)(けん)を悪用した国語審議会と国語破壊を画策する文部省御用学者たちの謀略に対する(きよう)()犯の役割を果たしたごとくである。


 ここで国語問題に足を踏み入れていては、それだけで優に一冊の論著が必要になってしまうが、すでに土屋道雄著『國語問題論爭史』(平成十七年一月、玉川大学出版部刊)という四百余頁の労作があるので、全てを該書に譲り、ここではそれに立ち入らない。ただ志賀の眼に余るばかりの(けい)(ちよう)()(はく)ぶりと時局便乗根性の卑しさは、これが大正教養派の典型なのだと多くの人の眼に映ったのはたしかなのだから、他の当事者たち一統にとってもいい迷惑だったであろう。


 前章の第四節「平和問題談話会」の項でも一言触れておいたことだが、我々がやや漠然と大正教養派の世代として把握している、昭和天皇より少し年長に当る世代の知識人たちを、何かの形で時勢に向けて言挙げをしている事蹟のある点を目安にして列記してみると、まず負の面での筆頭に挙げた志賀直哉が明治十六年生れである。少しおかしな存在として挙げた安倍(よし)(しげ)も同じ十六年で、本書では触れないが純粋の学者として大正教養派の代表のごとくに扱われている阿部次郎と(どう)(こう)である。阿部と共に夏目漱石の高弟として名高い、政治的な発言はあまりしていない小宮豊隆がその翌年明治十七年の生れになる。志賀と並んで白樺派の代表格武者小路実篤が明治十八年である。


 二年ほど間を置いて、明治二十一年に「平和問題談話会」主唱者中の最左翼の経済学者大内兵衛が生れ、翌二十二年に例の南原繁が、そして本論考中で最も興味深い存在である和〓哲郎がその同じ年に、翌二十三年には戦後処理の上でやはり責任の重い田中耕太郎が生れている。


 またある意味での大正教養派の代表格である文人芥川龍之介は明治二十五年生れ、その三年後の明治二十八年に谷川徹三が生れている。


 明治二十九年、三十年、三十二年という日清・日露の両大戦の戦間期、いわゆる()(しん)(しよう)(たん)の対ロシア戦争準備期に横田喜三郎、(さき)(さか)逸郎、宮澤俊義という占領期の負の面を代表する三人の学者が生れているのは単なる偶然にすぎないが、とにかく不吉の印象を与える。

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