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和辻哲郎と昭和の悲劇 伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人
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生き方・教養
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第四章 伝統破壊工作への和辻の抵抗

『和辻哲郎と昭和の悲劇 伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間29分
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一 国体変更論をめぐって


敗戦後の日本に迫っていた赤化謀略の危険



 昭和二十年二月の「近衞上奏文」に表れる彼の痛切な悔悟と反省を確認した所で、順序として我々の視線は、近衞が最も恐れていた、敗戦に伴う共産革命ないしそれに類する事態の現実化の問題に移る。


 幸いにして暴力をもってしての共産主義者の叛乱は生じなかったし、またその可能性も(いち)(はや)く封じられた。それはポツダム宣言第七条(実質上の降伏条件箇条の第二)に規定された連合国による保障占領に参加する軍隊が、現実には米・英両国と()く限られた一部での濠州軍であり、ソ連軍の参加が認められなかったからである。ソ連軍は昭和二十年八月九日の越境侵略開始から九月二日の停戦協定成立までの間に、南樺太と千島列島、殊に我が国固有の領土であることが国際法上確認されている国後、択捉、色丹、及び歯舞諸島のいわゆる我が北方領土に軍隊を侵寇せしめて不法占拠状態を作り出してしまっていたが、その枠を越えてまで、日本国本土の占領に参加することはさすがに米国によって拒絶された。ゆえにソ連軍が本土に駐留して共産主義革命の宣伝工作を行うという事態は避けることができた。


 ソ連が日ソ中立条約を侵犯して日本に宣戦し、樺太の日ソ国境、満洲国北部の満ソ国境を越えて日満両国への侵略を開始したのが二十年八月九日、八月十五日の日本国天皇による全日本軍の武力抵抗停止命令布達までわずか七日間しかない。ソ連以外の連合国は八月十五日の日本国の抵抗停止を承認して戦闘を停止したが、ソ連だけはなお日本への攻撃を続行した。ゆえに樺太南部、千島列島、満洲国境の防備についていた日本軍もソ連の攻撃には抵抗を続けざるを得なかったし、その時の連合国軍最高司令官にもソ連軍の日本侵寇を中止させるだけの実力を背景に有する権威はなかった。ソ連はいわゆる火事場泥棒の不当利益を獲得してしまった。


 合衆国政府の上層部の頭脳の中には、戦争末期には既にフランクリン・D・ルーズヴェルトという正常な判断力を喪失した老廃政治家に国政を託したことの失敗に気付いた者は何人かいた。しかし気が付いた時にはスターリンの謀略はもはやアメリカ人には抑制しようにも手の施しようもないほどに世界赤化戦略の足場を固めてしまっていた。今完全に無力化した日本を彼の赤化工作の魔手に委ねてはならぬ、との才覚が停戦時のアメリカ人に残されたせいぜいの所だった。


 F・D・Rに比べれば無害ではあるが凡庸な(きゆう)(ごしら)えの大統領ハリー・S・トルーマンから日本の占領方針に関して全権を委託された連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、さすがにコミンテルンによる赤化工作が敗戦後の日本という抵抗力の空白地帯に対して有している危険性を看取していた。


 日本占領の開始から六年半後の一九五一年五月三日、アメリカ合衆国議会上院の軍事外交合同委員会に喚問された最高司令官罷免直後のマッカーサーが、大東亜戦争は日本の自衛戦争であった、と証言したことはよく知られているが、その部分の証言の末尾で彼はまた、こうも述べている。いわく、〈私の個人的見解ではあるが、我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達がシナに於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった点にある〉と。


 このマッカーサーの悔恨と反省の主眼が中国共産党による支那大陸の赤化に置かれているのは、言うまでもなく一九五〇年六月勃発の朝鮮戦争という手痛い経験の教訓である。この動乱に際して中共に対する強硬な姿勢をとったことが、第三次世界大戦の危険を恐れた合衆国大統領によるマッカーサー罷免・召還の原因であった。だがマッカーサーの眼から見れば、この苦い経験の原因を朝鮮動乱より一目盛り溯ったところに現れてくるのはコミンテルン結成以来のソ連の赤化謀略である。日本占領の六年八カ月の期間に、彼はコミンテルン世界赤化謀略に対する帝国日本の厳重な警戒心がどれほど正しい用心であったかを十分に知った。


 かつドイツに対する英米仏ソ協同の全国土(じゆう)(りん)作戦の経過を見れば、ソ連の戦略的野心が、西側自由主義諸国の秩序安定志向とは全く相容れることのない、破壊的自己拡張欲の露骨な発動であることは一目瞭然である。日本降伏後の戦後処理にソ連の介入を許してはならぬことは自明であった。第一にそれは日本の占領政策に成功を収めたいマッカーサーの功名心にとっても重大な障害となる。戦後の日本に共産主義革命に類する内乱が生ずることは厳に警戒しなくてはならない。それはマッカーサーの占領政策実施上の大前提である。


激しい国家体制の変化に迎合した大正教養派の面々



 この大前提のゆえに占領下日本に近衞があれほどにまで恐れた共産革命は起らずに済んだ。revolutionを素直に訳せば叛乱・暴動であるが、その意味での共産主義者たちの暴力蜂起は生じなかった。ただこの語の字義から暴力的性格を(しや)(しよう)しても現状破壊的改革という意味は残る。


 この改革はある意味では近衞がひたすら恐れていた共産主義革命とほとんど変らないというべきほどの激しい国家体制の変化を日本に生ぜしめた。


 マッカーサーは日本国民を大量にキリスト教に改宗せしめるという妙な野心を抱き、新教系の牧師を多数、占領下の日本に送り込んで宣教に当らせ、その目的のためにこれまたおびただしい量の新約聖書を日本国内に頒布せしめた。一時期には皇室の中枢部においてまで、その聖書が読まれているとの風聞が世間に伝わりもしたが、それがマッカーサーの眼をくらませるために(かしこ)き辺りの取られた擬態ではなかったかどうかも今となっては解らない。週刊誌的大衆の好奇心もこの話題についてばかりはあまり深入りしようとはせず、やがて薄れて消えて行った。


 とにかく、日本国民のキリスト教化政策はマッカーサーの壮大な野心のわりには全く実績を挙げ得なかった。これはさすがに彼個人の虚栄心の発露にすぎぬ話で、占領政策にかかわる公的な方針ではなかったが、おそらく占領中に米国人が手がけた日本改造計画の諸策の中での最低の効果しか出せなかった項目であろう。


 その失敗を補って余りあるのが、アメリカの左翼が占領下の日本で思う存分に破壊欲を発揮した構造改革の成果だった。日本駐留の連合国軍総司令部の中で日本の戦後改革を主導したのは民政局という部門だったが、その主力をなしていたのは、いわゆるニューディーラーと呼ばれた社会主義者グループだった。


 その破壊工作の代表的な一例を挙げるならば、昭和二十一年一月のGHQの要請を受け、急遽国務省によって編成された教育使節団の日本訪問がある。使節団一行の二十七名は二手に分れ三月五日と六日に日本に到着、三月末までのわずか二十五日間の日本視察により、一冊の報告書を作成し、三月三十一日にそれをマッカーサーの()(もと)に提出してさっさと引揚げて行った。


 日本側はアメリカ教育使節団来朝の予告を受け、官民の教育施設在職者、宗教関係者、評論家たちの中からアメリカ使節団の人数に見合う二十九名の委員会をにわかに組織して対応に当ったが、結果は(さん)(たん)たる敗北だった。要するに使節団からつきつけられた助言の仮面を被った要求に全面的に屈服するより他なかった。結果として既に昭和二十一年の八月には教育刷新委員会の発足となり、そしてこの委員会によって教育基本法の制定、六三三四制という学制改革、教育委員会制度等の教育改革を具体化させられてしまう。


 教育刷新委員会の中で誰がどの分野でどの程度の役割を果し、責任を有したのかは、今となっては判らないのだが、目に付く名前を挙げてみるだけでも、天野(てい)(ゆう)(明治十七年生)、小宮豊隆(明治十七年生)、南原繁(明治二十二年生)、高木()(さか)(明治二十二年生)、()(たい)()(さく)(明治二十三年生)と、紛う方なき大正教養派の世代が中心である。この世代の人々が米軍の占領政策に対していかに抵抗力が弱かったか、ということは既に第一章で検証してみたが、その惨状がここにもまたその一端を覗かせている。


抵抗意志の薄弱を糊塗する「自ら望んだ改革」という欺瞞



 以下は占領下の諸改革一般について言えることであるが、教育刷新委員会の内部には、自らの抵抗意志の薄弱や強者への迎合の恥辱を糊塗する方便の一として、この改革は強制されたものではなく、元来自分たちの願望の中にあったことだ、それが占領軍の勧告という発条を受けたことによりむしろ好機到来という形で実現の緒に就いたのだ、との言い抜けを構える者が少なからず出た。


 このことは実は日本における多数の分野での戦後改革の大きな特徴となっている。簡単に言えば、強制されたのではなくて自発的動機にもとづいての改革であった、という強弁である。そしてそれが必ずしも単純な言い逃れではなく、事実その通りであったろうと思われる点が多々ある所に、戦後の諸改革の実態を分析する作業の難しさがある。


 平成十四年八月に徳間書店から刊行された『日本人はなぜ戦後たちまち米国への敵意を失ったか』(編集代表・西尾幹二)という長い題名の一書がある。平成六年九月から十二年九月にかけての六年間に計二十名の学者・評論家たちが「路の会」の名の下に計四十六回の研究会を開き、その総括として二回の大きな討論会を開いて意見を集約した、その討論会の発言記録集である。


 こうした討論会の書籍化に接すると、筆者は既に本書の第一章で紹介した「平和問題談話会」や『対立を超えて』の知識人たち、『近代の超克』に結集した「知的協力会議」の人々の事蹟を思い出すのだが、この「路の会」の討論記録は(「平和問題談話会」は全く論外として)先行の二点の良識に溢れた知的世界の展望図と比べてさらに高度の知的水準を示す、重要な精神史的記念碑であると映る。その長い題名が示す問題設定は、実は『近代の超克』の延長線上にあり、かつそれを包摂してさらに深く掘り下げたというべき規模を有している。

『近代の超克』の出席者全員が、明治三十三年生れを最年長とする明治生れの世代であるのに対して、「路の会」の討論参加者はほぼ全員が昭和生れ(大正十年生れが二人のみ)であり、従って軍務に服するという形で大東亜戦争を体験した人も大正生れのお二人以外にはいない。物心ついての後に開戦・敗戦と占領を体験している。辛うじて戦中派に(かぞ)え得る人が約半数、後の半数が戦後生れである。


 ゆえにほぼ全員が、占領初期の米軍による日本人洗脳計画(War-Guilt Information Program)の土台の上に構築された戦後学校教育を受け、幼い頭脳に日本国民の戦争責罪という認識を叩き込まれて育っている。その上でやがて、これはおかしい、日本の戦争がそんな性格付けで片付けられるはずがない、との疑問に取憑かれ、学校で教えられた歴史像の修正に自ら取組み始めた、という内的経歴を辿って来た人々である。そこにこの長大な討論会記録の特色がある。


 なにぶん二十人の出席者による広範囲な分野にわたっての討論なので、各人の視点、立場、主たる関心の対象も多岐にわたっており、全五章にまとめられた様々の発言の要約紹介を試みていてはいたずらに紙数を費すばかりである。該書はまだ読書界の現役であろうから紹介は省略して以下、ただ本稿の文脈に関わる項目の言及にとどめておく。


 それは主として大正デモクラシーの意味づけに関わる。「教育刷新委員会」の面々が、アメリカ教育使節団の理不尽極まる余計な節介を、それは元来の自分たちの希望していた線に沿ったものである、との(とう)(かい)を試みたことを見たが、現実に大正デモクラシーや大正教養主義を身につけて戦時体制の抑圧を凌いで来た人々にとっては、占領政策に自分の波長を合わせるのは元来容易なことだったのであろう。この人々の立ち位置は、昭和二十年十月十日の政治犯の釈放措置によって囚禁から解放された共産党系の政治犯たちが占領軍を解放軍と呼んで感謝を表明した笑劇とそう遠くないものだった。


 大正デモクラシーと普通選挙法の実施によって日本にも実現され始めた昭和初期の大衆社会は、見方によれば国家への義務よりも庶民の私的欲望に優先権を与えるアメリカニズムの浸透の結果でもある。そうした庶民層にとっての占領軍の宣伝工作は、自分たちの粗野な生活上の欲求に与えられたお墨付であった。


 それに大正デモクラシーはどこまでも一種の美名であり、その本質は(言い得て妙というべきだが)むしろ大正コミュニズムと呼ぶ方が実態に即していた。そしてこれにかぶれたのはプロレタリアートであるよりはむしろ農村では地主階級、都市では中間階層をなす識字階級が、観念的に広汎な汚染を受けていた。


 さらに庶民階級というものは変り身の早さという処世術を第二の本能として身につけている。今後どうすれば楽に生きられるか、そうした情報の把握の敏速さは、教育の大衆的普及に応じて十分に庶民の生活の知恵となっている。そしてそのような庶民の付和雷同的動向に便乗して自分の意見を形成してゆくのに絶好の、民主主義的志向という万能の切札を、知識人階級は振り廻すことができる……。


 以上「路の会」の討論記録を借りて、第一章の一「心理戦争の開始」と二「勝者への迎合と卑屈」の節に述べた被占領期初期の精神状況を再確認する形で、七十年昔のはなはだ面白からざる記憶をまたしても()び起してみた。


〓哲郎は時流に抗して伝統の擁護と維持に努めた



 次に我々が取りかかってみたいのは、このように広範囲に生じた伝統の断絶、むしろ意識的な(へん)(せき)(ほう)(てき)の風潮の(しよう)(けつ)の中にあって、どこかに一筋くらいはこの時流に抗して伝統の擁護と維持に努めた思想界の保守的な系譜があってもよかったはずである、もし実際にそのような流れもあったとすれば、それはどのような人々の集団であったか、との問いかけである。


 この問いを発してみた時に真っ先に思い出すのは自然の順序として、第一章の四で取り上げた「別派の知識人たち」であり、具体的に言えば『対立を超えて』のシムポジウムに参集した八人の学者たちである。この八人の中で、停戦と占領開始直後の、日本の精神伝統が本当にアメリカニズムに浸透され(へい)(どん)されてしまうかもしれない危機的な状況の中で、少しも臆することなく、冷静にしてかつ果断な言論活動を続けていたのは和〓哲郎であり、またその高弟たるの面目を十分に発揮した竹山道雄である。


 ここではその師弟の系譜に敬意を表する意味で、まず和〓哲郎の戦後の苦闘に焦点を絞って考察を試みたいと考える。


 敗戦の悲境は和〓のような冷静で堅牢な知性にも否応なく深い衝撃を与え、彼は昭和二十一年三月・四月に雑誌『思想』に発表した「人倫の世界史的反省 序説」を、〈太平洋戦争の敗北によって近代日本の担っていた世界史的地位は潰滅した〉という悲痛な一句で書き始めている。この「近代日本の担っていた世界史的地位の潰滅」という判断が、ちょうどこの論文の起草の少し前に三十九回の全研究日程を終っていた東大文学部倫理学研究室を中心とする読書会の報告記録たる『鎖国』の「序説」冒頭に〈……日本民族は実に情けない姿をさらけ出した〉と、少し字句を変えて再度使われていることは今では広く知られていよう。この慨嘆が本書の著者にとっての本考察のそもそもの手がかりになったことも本書の冒頭に記した通りである。


 そしてこの慨嘆すべき戦後現象の遠い原因を、歴史を三百年遡っての遠い昔に日本が国を鎖して内に閉じ籠り、〈近世の精神の影響を遮断した〉(きよう)()にあると考え、そして〈現在のわれわれはその決算表をつきつけられているのである〉との結論を出してしまった所に、〈日本の悲劇〉ならぬ歴史家としての和〓の悲劇が生じたのだ、との本書の著者の見解も既に冒頭に述べた通りである。


 この経緯だけを取り上げて考えていると、和〓という人は戦争末期から敗戦直後の時期にかけて、殊にやはり敗戦の衝撃を受けたことによって、何か根深い内面的な挫折を経験し、それが彼の冷静な考察力にある種の動揺を来し、歪みをももたらしたのではないか、といった想像を弄んでみたくもなる。

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