読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-1
kiji
0
1
1171662
0
和辻哲郎と昭和の悲劇 伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人
2
0
0
0
0
0
0
生き方・教養
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
あとがき

『和辻哲郎と昭和の悲劇 伝統精神の破壊に立ちはだかった知の巨人』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:9分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


 本書は元来単行本として構想し執筆を進めてゐた『伝統の興廃』(仮題)といふ一書の後半部を切り離して、現に見られる如き新書版といふ少しく軽小な形に編集し直したものである。


 単行本としてやゝ分厚いものになりさうな形勢だつた原稿を二つに分けたのも、又その後半部を前半より先に活字化することにしたのも、PHP研究所出版部の大久保龍也、川上達史両氏の助言によるもので、著者の私が素直にそのおすすめに従つて決めたことである。


 構想してゐた『伝統の興廃』の前半部は、簡単に言へば日本人の国家意識の形成過程の精神史的考察である。国家意識なるものは、自国の外にある異国乃至(ないし)異文化圏の存在を認知し、意識することによつて芽生えるのであるから、それは当然ながら対外意識の成長と醇熟の反映でもある。そこでこの部分は日本人の対外認識が諸外国との外交交渉や文化交流の履歴を通じて次第に成長を遂げ、やがて幕末期の開国前夜に見て取れる特異な国体論の発生に至るまでを扱つてゐる。それが(ばん)(ぽう)()()の国体の自覚といふ精神的伝統の「興」の部分である。


 後半は、さうして興起し成熟した日本人の国家意識が明治の後半以降に外的・内的の様々な要因によつて次第に(すい)(たい)し、「廃」の様相を呈してゆく過程を同じく精神史的に考察してみた結果報告である。只、この衰頽過程の考察には、編集部の御意見として、その流れに抵抗した人物の代表として扱つてあつた和〓哲郎の存在により明るい照明を当てた方がよいとの助言を得たので、新書版への改編の方針が立つてから後、和〓を中心に若干の加筆・修訂を施すことになつた。


 ほぼ脱稿に近い形になつてゐた前半部を差し置いて後半部を先に刊行したのは、これも()づ現代に於ける伝統の衰頽といふ問題提起が為された後に、()てそれではその伝統とは()()なる来歴の国民的精神現象だつたのか、といふ回顧・分析的な説明に及んだ方がよい、との一篇の論策の構造そのものについての熟達の編集者の意見に従つた故である。


 当初単行本としての刊行を予定してゐたので、著者の手書き原稿は、従来通り正仮名遣で、漢字の字体も技術的に可能な限りなるべく多くの正字体を用ゐるといふ方式で綴られてあつた。新書版での刊行といふ計画変更に伴つて、この方式は廃棄せざるを得ず、仮名遣を現代式の表記に切換へた他、著者の漢字語への偏好も放棄してかなりの字数をかなに書換へることとし、その手数は全面的に編集部にお任せすることにした。


 いはゆる正統表記の放棄は文筆家として可能な限りこれを遵守してゐる著者としてはかなりの苦痛ではあつた。ところが、気がついてみれば、この新書版では標題にその名を出すまでに扱ひを拡大した和〓哲郎本人が、死後に於いては全集の編集を機会にその同じ苦痛に堪へさせられてゐる。この或る意味で驚愕に値する事実に直面して私は又新たなる感慨に堪へない思ひをした。


 即ち、著者は和〓の著作についてはこれをなるべく初版の単行本を購求して読むことを心掛けてゐたのだが、当然ながら今では入手困難になつてゐる版本が多く、()むを得ず、昭和三十六年から三十八年にかけて刊行された旧版・二十巻本の『和〓哲郎全集』所収の本文に依つて(はん)(どく)したものも多い。


 昭和三十五年十二月二十六日の和〓の逝去から一年足らずの三十六年十一月にはその全集の第一回が配本された、その迅速さは立派であり、故人を敬愛する高弟達に多くの官学派の教授達がゐたこと、その人々が全集の(へん)(さん)と刊行に(しか)るべき力を尽くしたものであらうことは見事であつたと称してよい。


 だがこの人々は師和〓の著作の原典が正統表記を遵守して綴られてあるといふ事実に関して、先師の遺志を尊重し貫徹する、といふ配慮をしなかつた。それが(せん)()の和〓にとつて、およそ彼の伝統固守の志操を裏切る忘恩無残の行為であるといふ罪の意識は全く無かつたらしい。故人に対する弟子達のその非情な措置に思ひを致す時、和〓の名を標題に出した一書で著者の私が覚える屈辱の如きはまあ無視されても致し方のない次第であらう。


 表記の面での妥協のみならず、本新書版の特色であらうと思はれる各章各節の中での多数の小見出しも、それを付する位置、数目、字句の選定等、全て編集部に御一任とした。その結果に対して著者から出した修正の要請は皆()(さい)なもので数もごく僅かである。なほ表記の変更に伴なつて、引用した原典史料の字遣につき、原典の字体に忠実を守つた部分と微調整を施した部分との不統一が生じてゐるところがあるが、文意・解釈に影響を及ぼすほどのものではないのでその点には御(かい)(よう)をお願ひしたい。


      *


 (ちな)みに、本文の中で述べるには私事に(わた)る要素が濃いので(はばか)られたが、「あとがき」といふ少し気楽な場を借りて書き留めておきたい或る逸事がある。


 和〓哲郎に対する内心での深い敬意にも拘らず、私は氏の生前にその(けい)(がい)に接する機会を得られずに終つた。それなのに、本書第四章一節に述べた人民主権派による和〓論文への論難・(はん)(ばく)の項で扱つた、当時の四高教授安藤(たか)(つら)とは後年ふとした機縁で親交を結ぶに至り、(こう)()は安藤の死去まで温かく続いてゐた。


 その機縁とは、昭和五十年八月初め、私が或る日刊新聞の文芸欄で、オマール・ハイヤーム作『ルバイヤツト』所収百四十三篇の四行詩を全部、安藤が三十一文字の五行詩体(即ち短歌形式)を以て訳出した(しよう)(しや)な詩集『るばいやあと』を取り上げて論評したことである。


 同書の刊行が六月だつたから、これは新刊の書物へのジャーナリズムからの反響としてはかなり早いと感じられたことだらう。評の趣旨はこの試みを一種の「奇書」の出現であると規定しながらも、その卓抜なる()(そう)による原典(但し英訳版)の完全な和風への消化ぶりに正直な感嘆と(さん)(しよう)の辞を費した記憶がある。


 安藤はこの評を甚だ喜んでくれ、やがて一日岡山県の玉野市の住居から東京に出て来た安藤と私とは初めて(めん)()の機を持つことになつた。当時安藤は岡山大学の哲学の教授であり、ギリシア、ラテンの古典語に熟達し、英仏独等の西洋近代語を自由に駆使し、自分のアリストテレスに関する研究の著書は自ら英訳して出版し、欧米の学界で高い評価を受けたほどの力量のある学者だといふ程度の認識は私にもあつた。


 そして又これは昭和五十九年五月の安藤の死後のことであるが、作家の白崎秀雄に『当世畸人伝』(昭和六十二年一月、新潮社刊)といふ面白い著書があり、そこで取り上げた七人の当世の()(じん)の一人としての安藤孝行について、作者白崎の長い直接の交際から見ての安藤の諸種の奇行をめぐる挿話類に一章が捧げられてゐる事は特記しておきたい。


 (ただ)し、私の接した限りでの安藤は、白崎が大いなる困惑ぶり(それには「迷惑」の要素は全く無かつた)を記してゐる様な畸人らしい振舞を殆ど見せなかつた。


 辛うじてその片鱗を垣間見る様な経験として思ひ出すのは、安藤が、四高教授だつた時以来同じ金沢の住人として親しかつた国文・漢文の(せき)(がく)金沢大学の川口久雄教授と私とが、互ひに全く学統を異にする経歴なのに何故か親交を有する間柄であることを知つた時のことである。安藤は川口と組んである文雅の催しを企て、その仲間に私を誘ひ込んで一種の(てい)(そく)関係を作つた。当時、明治四十三年生れの川口は私より二十三年の年長、四十四年生れの安藤は二十二年の年長であるから、年齢から見て一人だけ若い私にはそんな三人組への加入はとても不釣合と思へてひたすら辞退したのだが、安藤は私の遠慮を頭から無視してかかつてゐた。御両人とも、時に七十歳に近かつたが至つて元気でよく東京に出て来ては数日の滞在を楽しんでゐた。


 安藤は七十四歳で歿し、川口は老年に至つても比較的元気で(ぼう)(だい)な専門的業績を遺して八十三歳まで金沢の地で多数の弟子達から厚い尊敬を受けつつ悠々たる晩年を過してゐた。現在の私は川口博士の享年を超えてなほ馬齢を重ねてゐるが、二十歳以上の年齢の(けん)(かく)を持つた二人の碩学との交遊を思ひ出すと、何かそれが現実ではない、私の妄想の中の茫々たる幻像であつたかの様な不思議の思ひを禁じ得ない。


 白崎秀雄による安藤の畸人ぶりの活写は決して虚構でも誇張でもないと思はれるが、私に対する時の安藤は常に畸人どころか、常識円満で豊かに老成した学究としか見えなかつた。彼は当時四十歳台だつた私が一文法教師の分際で、よくジャーナリズムに筆を執つたりするのを多少危ぶむ様な口ぶりを時に見せた。そして言ふには、──学者の中には、その動機が自己顕示欲乃至同業者の業績への嫉妬・競合意識に発したとしか思へない、これ見よがしの研究業績の濫発を敢へてするものが少なからずゐる。その書いた文章を読めば、それが学界といふ公共への(しん)()な寄与を志したものか、己一個の名利の欲に発したにすぎないものかは必ず看破できるものである。貴殿にはさうした手合の同類に列してもらひたくはないのだ──との温かく()つ厳しい訓戒を率直に表明するのだつた。


 顧みて思ふに、私が安藤の真顔での鑑戒を遵守したのか、それともそれに(そむ)く方が多かつたのか、自分でもよく分らない。ともかくもその忠言は私の記憶に深く刻まれてはゐた。だから後年、白崎秀雄の『当世畸人伝』に描かれた面妖な安藤孝行像に接した時には、これが果して同一人物の性格描写であるのか、との不思議に堪へなかつたものである。


 そんな風に深い懐しみのある交遊関係であつたから、私は安藤との交誼が始まつた最初の時から胸中に抱いてゐた或る質問、──あなたが昭和二十一年に和〓哲郎に向けた詰問調の駁論の本来の動機はいつたいどんなことだつたのですか、との問ひかけを、度々咽喉(のど)(もと)まで出かかりながら遂に口外する機会を得ぬままに彼とはやがて幽明境を異にするに至つてしまつた。晩年の安藤は至つて自然態の文化的保守主義者であり、稀に政治的な話題にふれた時にも明白な反左翼の立場に立つてゐた。彼にあの様な和〓への手厳しい論難の前歴がある様にはとても見えなかつた。

この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:4300文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次