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生き方・教養
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第一章 「あきらめ」のすすめ

『がんばらない、がんばらない』
[著]ひろさちや [発行]PHP研究所


読了目安時間:34分
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思うがままにならないことを、思うがままにしようとしてはいけません



 朝、起きて窓から外を眺めると雨が降っています。外出の予定のあるあなたは、一瞬、
〈いやだなあ……〉

 と思います。でも、そう思ったところで、降っている雨がやむわけではない。天気はあなたの思うがままにならないことです。そうだとすれば、〈いやだなあ……〉と思わないほうがよいのです。思うがままにならないことを思うがままにしようとしないこと、それが、

 ──あきらめ──

 です。そして仏教は、「あきらめよ!」と教えています。

 ところで、普段使っている“あきらめ”といったことばは、わたしがいま言った意味とはだいぶちがっています。『広辞苑』によると、
《あきらめる〔諦める〕……思い切る。仕方がないと断念したり、悪い状態を受け入れたりする》

 となっています。これだと、
〈ほんとうは雨が降っていないほうがいいのだが、しかたがないなあ……〉

 となってしまいます。そう考えてはいけない、というのではありませんが、それだと仏教の教えにならないのです。

 あなたがガンになったときでも同じです。
〈ガンになった。しかたがないなあ……。あきらめるよりほかない〉

 というのは、一般的な意味でのあきらめです。しかし、仏教が教える「あきらめ」は、ガンになるかならないか、それはわたしたちの思うがままにならないということです。思うがままにならないということをはっきりさせる。それが仏教の「あきらめ」です。ですから、これを“明らめ”と表記したほうがいいかもしれません。まずは、それが人間の思うがままになることか、ならないことか、それを「明らかにしなさい」と、仏教はわれわれに忠告しています。その点をまちがえないでください。

 しかし、誤解しないでください。降っている雨を止めることはできないのだから(思うがままにならないのだから)、〈いやだなあ……〉と思わないほうがいいと書きましたが、これは、〈雨もまたいいなあ……〉と思え! と言うのではありません。世間の人はよくそう言いますが、それは仏教の考え方ではありません。

 なるほど、雨であれば、雨もまたいいものです。雨が降らないと農業はできません。また、雨が降った景色はなかなか風情があります。観光旅行のとき、土地の人は、
「晴れていると、海の向こうに△△島が見えるのですが、今日はあいにくの雨で、残念ですが見えません」

 と言われますが、わたしは、
「いや、この景色のほうがすばらしいですよ。晴れた景色なんてありきたりです。雨の景色のほうが風情があります」

 と応じます。負け惜しみではなしに、ほんとうにそう思います。

 しかし、仏教が教える「あきらめ」は、雨もまたいいものだと思えと言うのではありません。そうではなしに、いい/悪いといった判断を超越しなさいと言うのです。

 いい/悪いといった判断をすることを、仏教では、

 ──分別(ふんべつ)──

 と言います。これも日常語では、分別のあることはいいことですね。反対に“無分別”はよくない。けれども仏教では、「分別するな!」と教えています。なぜかと言えば、わたしたちがする分別は、あやふやなものだからです。大学入試に合格することはいいことで、不合格は悪い。そう考えるのがわたしたちの分別です。しかし、現役で一流大学に合格して喜んでいたが、クラスメートに相性の悪い人がいて、その人にいじめられて自殺することもあります。一年浪人して入学したら、すばらしい恋人が見つかったかもしれません。分別というものは、所詮その程度のものなんです。

 そして、わたしたちがそのような分別をしていると、ほんとうは分別してはいけないものまで分別してしまいます。たとえば、優等生/劣等生といった分別です。いい子/悪い子/普通の子といった分別もあります。学校や世間は、そのような分別をします。でも、親がそのような分別をしてはいけません。わが子はわが子なんです。世間の評価が低いからといって、わが子を別の子と取り替えることができますか? そんなことはできないのですから、分別なんかしないで、わが子をそのまま肯定するのです。それが仏教が教える「あきらめ」です。



 仏教はわたしたちに、どのように生きればよいかを教えてくれています。そして、その教えは、あんがい簡単なんです。

 ──思うがままにならないことを、思うがままにしようとするな!──

 これに尽きます。このことがわかれば、わたしたちは仏教がわかったことになります。

 そうするとわたしたちは、まず、何が思うがままになることであり、また何が思うがままにならないことかを明らかにせねばなりません。それが「あきらめ」です。

 たとえば、夫婦の関係にしても親子関係にしても、わたしたちは相手にこうあってほしいと思います。妻は夫に、
〈あなたがもう少しやさしくしてくれるといいのに……〉

 と思いますが、それは思うがままにならないことです。よく考えてください。まず、「やさしくする」ことがどういうことか、それを要求する側にもわかっていません。夫が妻にプレゼントをしてくれるのがやさしいことか、家事を手伝ってくれることがいいことなのか、たいていの場合、要求は漠然としています。そんな漠然とした要求に相手は応えることはできません。親が子に、
〈いい子であってほしい〉

 と望むのも同じです。

 また、かりに相手の要求がよくわかったとしても、その要求に合わせて自分を変えることはむずかしい。そもそも自分を変えるなんてことは、思うがままにならないことです。わたしも、〈今日はこれだけの原稿を書くぞ〉とよく決心しますが、なかなか思うがままになりません。

 眠れぬ夜だってそうですよね。眠ろう、眠ろうといくら努力しても、眠れぬときは眠れません。思うがままにならないのです。ならばあきらめてしまえばいいのです。あきらめてしまったとき、あんがい眠れるかもしれません。でもね、あきらめたら眠れるかもしれないと思って、それで一生懸命あきらめようとする人がいますが、それは結局はあきらめていないのですよ。
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