未来を悩まず、今日を楽しく熱心に生きればいいのです
「希望を持つな!」と言えば、たいていの人が驚きます。世間では、常に希望を持てと教えていますね。わたしが言うのはそれと正反対ですから、〈おかしい……〉と思われるのは無理もありません。
そこで最初に、
釈
のことばを紹介します。お釈

さまの権威でもって、わたしの主張の裏付けにします。
《過去を追うな。
未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。
未来はまだやって来ない。
だから現在のことがらを、
現在においてよく観察し、
揺ぐことなく動ずることなく、
よく見きわめて実践すべし。
ただ今日なすべきことを熱心になせ。
誰か明日の死のあることを知らん》
これはパーリ語聖典の『マッジマ・ニカーヤ』の中の「一夜賢者経」と題される経典に出てくることばです。
わたしたちは、過去の失敗をくよくよと悩んでいます。でも、いくら悩んでも、過去を変えることはできません。悩むだけ無駄なんです。
いや、失敗を反省することによって、二度と再び同じ失敗をしなくなる。だから、反省することは大事なんだ。そう主張される人がおいでになります。それは、学校の算数や数学の試験問題であれば、反省することによって同じ誤りを繰り返さないかもしれませんが(でも、同じ失敗をすることも多いですね)、人生には同じ問題なんてありませんよ。だから、いくら反省したって同じ過ちを繰り返します。それが証拠に、酔っ払いを見てください。わたしなんか二日酔いをするほど飲まずにおこうと決心しながら、相変わらず二日酔いをしてうんうん
唸っています。ともかく、過ぎ去った過去は反省しないでいいのです。お釈

さまはそう言っておられます。
いや、それよりも、過去の成功のほうが困りものです。わたしたちは物事に成功すると、その成功体験が
仇となって、それにのめり込んでしまうことが多い。そのいい例がパチンコです。あるいは競馬・競輪などのギャンブルです。なまじ大穴を当てたりすると、その快感が忘れられず、執着してしまうのです。そのように成功体験に執着することも、釈

の「過去を追うな!」のうちに含まれています。
そして、「未来を願うな!」が、わたしの言う「希望を持つな!」です。
普通は「希望」というものは、美しいものに思われています。しかし、よく考えてみたら、そのほとんどが夢みたいなものです。世間では美しい夢を持てと言いますが、総理大臣になりたい、社長になりたい、大金持ちになりたいというのが、ほんとうに美しい夢でしょうか? 高校の野球部員が甲子園で優勝したいと夢を見るのを、世間の人はほめそやしますが、そんな夢を持てば毎日毎日練習ばかりしなければならず、野球を楽しめません。サラリーマンが社長になりたいと思えば、上司にごまをすらねばならず、人間が卑屈になりませんか? 家庭を犠牲にしてあくせく働かねばならない。そんな生き方をするよりも、毎日の生活を楽しく生きなさい。釈

はそう教えているのです。それが、「未来を願うな!」であり、「ただ今日なすべきことを熱心にせよ!」なんです。
ともあれ、希望というものは欲望なんです、その本質は。物質的な欲望もさることながら、権力欲や名誉欲。それが希望ですよね。そんな希望は持たないほうがいいのです。
それと同時に、われわれは未来を思い悩みます。大学受験に失敗したらどうしよう、会社をリストラされたらどうしよう、とあれこれ悩みます。まことに悩みの種は尽きません。
もちろん、希望と悩みはちがっています。わたしが二つを並べると、おまえは味噌も糞も一緒にするのか!? と叱られそうです。
しかし、とことん突き詰めて考えるなら、わたしたちはいやなことから逃れたい、苦労なんかしたくないと思って悩むのです。その意味では、逆方向の希望で悩んでいることになります。
だとすると、釈

が「未来を願うな!」と言ったのは、未来に対して希望を持たないと同時に、先のことをあれこれ悩むなと教えているわけです。わたしはそのように解釈します。
そして、これは釈

だけではありません。キリスト教のイエスが、
《明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》(『マタイによる福音書』6)
と言っています。釈

と同趣旨の発言ですね。
※
考えてみれば、われわれは過去と未来に対していっさいの権限はありません。
たとえあなたが大金持ちであっても、千金・万金を出して昨日の二十四時間を再使用させてほしいと言っても、それは無理です。同様に大金を積んで、明日の二十四時間を今日使わせてほしいと頼んでも、聞き入れられるわけがないのです。その意味では、時間は金持ちにも貧乏人にも平等に与えられています。
わたしたちは、今日をしっかりと生きるよりほかありません。
未来のことはわたしたちの権限にないのだから、ほとけにまかせておくよりほかありません。釈

が言う、「誰か明日の死のあることを知らん」です。明日、わたしがぽっくり死んでしまうかもしれない。それなのにわたしたちは、来週のこと、来月のこと、来年のことを計画しています。
と、このように書けば、「そうだ、あしたはあしたの風が吹く。くよくよしたってしかたがない」と、あなたは思われるかもしれません。そういえば、「ケ・セラ・セラ」といったスペイン語がありましたね。「なるようになる」といった意味です。一九五六年のアメリカ映画『知りすぎていた男』の主題歌の題名でもあります。明日はなるようにしかならないのだから、くよくよするのはよそう。あなたがそう思えば、まあ半分は釈

のことばを理解しているのです。
でも、半分だけです。
あとの半分は、釈

が言う、
「ただ今日なすべきことを熱心になせ」
にあります。それを忘れてもらっては困ります。
では、今日なすべきこととは何でしょうか……?
それは、明日のための準備ではありません。
金儲けというのは、明日のための準備ですよね。