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第一章 青春の思索

『青春ノート』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間14分
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   真実の自己の追求


 中世においては、一切のものが神によって意味づけられていた。

 しかしこれからは、真実の自己を表現していく過程において、自己の内面から、一切のものを意味づけなければならない。

 神の死によって失われた人生の意味を、日常生活の意味を、われわれは自己の表現によって再び内面から回復しなければならない。

 たとえば自分の考える音、自分がいい音だなーと感じる音をだそうとして、連日楽器を打ちつづける。なんとかして自分の思うような音を出そうとして、手にまめができて血のにじむまで楽器を使う。

 そうしたことが、自分を発現するということなのだ。その音のなかに真実の自己を見ようとする。真実の自己を求めての苦闘、それが血のにじむ手なのだ。

 心のなかで、こういう音が出せないかなーと思っている、その想像の音に現実の音を近づけていく過程、それこそが真実の自己を追い求めていく過程なのだ。

 想像は現実を改革するためにあるのであって、現実を誤解するためにあるのではない。

 ただ気狂いみたいに大きな音を出してみたりすることが決して自己の追求ではない。

 自動車などというときわめて現代的な格好よいものと思うかも知れない。

 だが自動車部の連中が自動車に自らの青春をかけるのは、決して格好よさや速いスピードへのあこがれによるのではない。

 ラリー、フィギュア、整備、そうした競技を通じて自分の能力の限界に挑戦するところに、永続的な魅力を感じ、生き甲斐を覚えるのだ。

 自分で整備した車、そしてその車で自動車の能力を最大限に発揮させなければ通過できないような狭いコースをぎりぎりいっぱいに走る、タイヤの位置が今どこにあるか、というようなことを正確に知って、複雑な道を通り抜けていく。

 そのためには厳しいトレーニングが必要だ。合宿ともなれば朝は五時ごろからたたき起こされてマラソンや体操と、訓練につぐ訓練なのだ。

 だが、そうした激しいトレーニングと技術の錬磨をくりかえしながら、その車を運転することのなかに真実の自己を追い求めるのだ。その車の運転のなかに自分を表現するのだ。それは、画家が画板の上に自分を表現するのと同じように、車の運転のなかに自分を表現するのだ。

 街のオニーチャンがオネーチャンを乗せて常軌を逸したスピードで走るのは、女の子への見栄であり、自信のない人間の虚勢であり、欲求不満を単にスピードのなかに解消しているのにすぎない。

 人間は単なる欲望の総体ではない。

 心理学ならびにその隣接諸科学はうんざりするほどの欲求の分類表を提出した。いずれもそのとおりであり、人間にはそれだけさまざまの欲求がある。

 だが欲求とは、いずれも外的条件が整えば、それほどの努力なしに満足されるものだ、食欲にしても、性欲にしても、外的条件が整えば、つまり食物があれば、異性がいれば、それだけで、それほどの努力なしに満足させることができる。

 精神的なものだって、たとえば集団に所属したいという欲求も、新しいものに対する欲求も、外的条件の問題だ。

 権力欲だって、権力の座につくかつかないか、虚栄も金があるかないか、いずれにしてもそうした欲求は、外的条件の問題である。その条件を獲得するのが大変であるとしても、その条件が整いさえすれば、自然と満たされるものだ。

 それは自分と外の環境との適応の問題である。だが、真実の自己の追求、自己の表現は条件の問題ではない。環境の問題ではない。

 条件が整っても、環境がよくても、ただそれだけで自分が表現されるというのではない。そこに真実の自己の姿があらわれるわけではない。

 真実の自己の追求、自己の表現は、その環境のなかでの苦闘なのである。


 使命をになった者の道は常に厳しい。

 先日某紙においてある女性評論家は次のような趣旨のことを語っていた。

 現在マイホーム主義を批判する空気はたいへん強い。しかし考えてみれば、毎日つまらない仕事をやっていてそれに生き甲斐を感じるというのはしょせん無理な話だ。くる日もくる日も同じ仕事のくりかえし、これに生き甲斐を感じるのなら感じる方がおかしい。そうした仕事のなかで仕事に生き甲斐を感じることができなくて家庭を第一主義で生きるのは当然のことだ。それは人間がまだ人間らしく生きようとしている証拠ではないか。仕事でダメだから、マイホームに生きる路を求める。それはすべてをあきらめていない立派な人間なのだ。

 というようなことを言っていた。

 僕は人間として家庭を大切にするのが悪いと言っているのではない。天下国家のために家庭を犠牲にせよなどとはとんでもない話だと思っている。現在のように機械化された大企業の流れ作業に生き甲斐を感ぜよなどということは常軌を逸している。あの仕事はどう逆立ちしてみても生き甲斐にはならないだろう。

 しかし仕事がダメだからマイホームというのはおかしいではないか。

 僕の知人の一人は中学を出て勤めた。しかし毎日同じ仕事で何かつまらない、面白くない、張り合いがない、そこで卒業して二年して夜間高校に通いはじめた。

 彼は勉強に張りを見つけそれから充実した日々を送りはじめた。昼働き夜は勉強というのは厳しい。これまでのように安易ではない。しかしこれまでより心の張りのある生活になった。毎日少しずつでも自分は進歩していくということに彼は充実感を覚えた。

 だがもし彼が夜間高校に行かないで、オシャレと遊びに日を送り、婚期がきて結婚してマイホームに走ったらどうだろうか。彼は僕が会った時は二十二歳の夜間大学生だった。

 彼は昼働き夜学問、その上セツルメント活動をして貧しい人と語りあって助けていたのである。しかもそうしたなかで昔の友人と月一回会って、そこで人生論の定期的な討論をしていた。

 彼はセツルメント活動に、学問に、充実した日々を送り、そして一方人生を深く考えることをおこたらなかった。

 彼と同じように生き甲斐のある人生を今の青年が送れないのはなぜだろう。

 仕事は中卒だからもっともつまらない職種だったかもしれない。しかし彼はマイホームに逃げなかった。

 問題はそれだけだ。

 今のサラリーマンだって、仕事がすんだら飲み屋などに行かずに学問をすればよいではないか。そして日々自分の能力が増大していくことに喜びを見つけられる筈だ。真理の探求、やりたい勉強をやればいいではないか。社会事業をすればいいではないか。そこに人を助けるという生き甲斐が待っているのではないか。

 会社のくだらない人間関係で気をくさらしているなどというオロカシイことをやめて、超然とすればいいではないか。超然とできないのは環境ではない。自分の精神がひよわだからだ。たとえ会社の仕事がつまらなくても、先にいったように生き甲斐のある人生を現に送っている人がいるのだ。

 そして自分に能力をつけたら、もっと素晴らしい面白い職種につけるかもしれないではないか。

 仕事がつまらないからマイホームというのは、自分が現在の環境に埋没しているだけの話ではなかろうか。とにかく現在の環境でなんとかかんとか生きていかれるとなれば、そのなかに埋没してしまって、その環境を脱却して、よりよいところに出ていこうとする努力をおこたっているのではないか。

 脱出のための努力、新たなる出発の気力を失っているのではないか。

 会社に五年いる。そうするともうそれに慣れてしまって新しく何かをはじめようという進取の気性を失ってしまっている。

 一体、それで生き甲斐のある人生が送れないとこぼしているのだとしたら、悪いのは誰なのだ。

 現在の状況に慣れてしまってはいないか。

 現在の状況は不快ではない。ただなんとなくつまらないという時、その状況を脱出し、あるいはそれを突き破るだけの気力をなくしてしまって、そのなかにまどろんでいるのではないだろうか。そして時々気晴らしをしているだけではなかろうか。

 それは安易な生き方だ。それが一番安易な生き方だから、ズルズルと毎日そうしてしまっているだけではなかろうか。

 しかし、生き甲斐とは、安易さの正反対の厳しさのなかにあるものではないか。

 会社の仕事はつまらない。しかしとにかく今のままでいればなんとか、その日その日が送れていく。そうしたなかで、ようしひとつやってやろうか、という発奮するだけのファイトを失ってしまっているのではなかろうか。

 それで、一体悪いのは環境なのか、自分なのか。

 物質文明は長足の進歩をとげた。機械は生まれ、大きな組織ができた。そしてそれゆえにこそ物質上の生活は進歩した。それは悪いことではない。大いにけっこうなことだ。文明の方向は決してまちがっていたのではない。自動車ができて便利になった。それが物質文明の方向だった。

 してみれば、そうしたなかでいかにして生き甲斐ある人生を送るか、それを体当たりで模索するのが青年の使命ではなかろうか。

 従来の価値信念体系の崩壊のなかで、心の支えを失って、浮き草のごとくただようのが現代だとすれば、青年はそのようななかでこそ、いやそのような時代であればこそ、体をもって新しい価値を、新しい思想を、新しい道徳を求めて生きねばならないのだ。

 それこそ、現代の如き、精神的混乱と、確固とした心の支えを失った時代に生まれた青年の使命なのだ。

 青年よ、現代に生まれた人々よ、僕等はこの光栄ある使命をになって生きることを避けようというのか。

 この精神的錯乱の現代に生まれた好運を、この人類の大なる使命をになうことを避けようというのか。

 膨大に発展した物質文明のなかで、人間がいかにして生き残れるか、ということを身をもってさし示すべきが現代の青年の使命ではないのか。

 文明がいかに進んでもかくのごとく生き甲斐ある人生が送れるのだということを、これから先の人類に先がけて、身をもって示すことのできるこの光輝ある地位を、君は拒否するのか。
「文明のなかの生き甲斐」を自らの体をもって示すことのできる一番手になりうるのが僕達青年なのだ。

 厳しい山を登ることは、たとえ先に初登頂をされているとしても生き甲斐ある充実したことなのだ。しかし初登頂の栄光というのがある。今、初登頂の栄光を獲得できるのは誰だろうか。すべての山がのぼられたあとではこの喜びはない。

 しかし文明が進歩した今、初登頂の機会が生まれた。文明から疎外されることなく、文明をいかに自らの生き甲斐に利用するかということを人類に先がけて示そうではないか。

 新たなる価値、新たなる理想をつくることのできるこの混乱の時代を、君は好運とは思わないのか。

 では、自らの肉体と自らの精神、自分のすべて、自分のなにもかも、一切合切をかけてこの時代のなかに築くべきものは何か。

 それは君自身が知っている筈だ。

 それぞれの人の立場はことなっている。

 その立場立場に応じて、築くべきものはことなっている。

 自分はこうしたなかで、こうしたことが出来た――そう、そのことが尊いのだ。何ができたかということは、常にそれが生みだされた後の環境を考えて評価しなければならない。

 毎日ハンマーを押す機械いじりということは仕事が安易だということだ。仕事が安易だからこそ、それ以外のところでは厳しさを求めなければならないのではなかろうか。

 そのうえマイホームあるいは余暇とか趣味とかいう安易なものに頼るなら、安易さのハシゴだ。安易のダブルヘッダーだ。

 趣味にあったくらし――大賛成。しかしそれは本業以外という趣味、息ぬきという感じがしないか。本業が厳しくない以上、せめて趣味だけでも厳しいものであってほしい。
「趣味程度にやっています」というのでなく、それがスポーツであれ、お花であれ、そこに自己の完成の過程を見るような厳しいものであってほしいものだ。そこに自己の完成をめざす、それを通じて自分を鍛えていくというようなものであってほしい。そこに生き甲斐があるのではなかろうか。

 終日ガソリンスタンドに立っている。

 その仕事を充実させる。たとえばガソリンを入れにきた客を気持ちよくもてなしてやるような努力、そうすることは必要だ。しかしそこに自己の全存在をかける充実感がないなら、つとめを終ってパチンコ屋やバーで暇をつぶすというようなことは止めて、何か自分の身に実力をつけることに時間を使ってみないか。もし、それをしないで、飲み屋にいっていて、現代は生き甲斐のない時代だというのなら君はまちがっている。

 現代が生き甲斐のない時代なのでなく、僕達の気力がないのだ。

 機械によって仕事が楽になった。そしてそれに生き甲斐がもてないなら、仕事が苦しくないのだから、今度は思いきり自分のやりたいことで厳しさを味わって生き甲斐をもつことはできないだろうか。

 電気洗濯機、電気掃除機、その他の電気製品によって夜まで縫いものをしなくてもすむようになった。家事の忙しさから解放された、それではその解放された時間で、自分の好きなことで困難にたちむかえばいいではないか。これをしないことによって生き甲斐を感じられないという時、悪いのは機械文明だろうか、それとも気力のない若奥様だろうか。

 今のOLや若いサラリーマンは結婚準備のための貯金をするという。そしてあのバカバカしい金のかかる結婚式をする。

 どうして給料をそんなもののために貯金しないで、もっともっと大切な自らの生き甲斐に使わないのだ。

 結婚式に生き甲斐があるのか!

 それをしないとみっともない、そういう気持ちが人生をつぶす、これで悪いのは文明か若者か。
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