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第二章 本来の自己とにせの自己

『青春ノート』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


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     (一) 欠乏欲求


 欠乏欲求という名で時々呼ばれる欲求がある。

 欠乏欲求とは、それが満たされないと、精神的病気の原因となる欲求のことである。

 集団に属したいとの欲求とか、人から認められたいとの欲求とか、自尊心を傷つけまいとする欲求とか、失敗を避けたいとする欲求とか、成功したいとの欲求とか……。

 これらの欲求は、一見ちがっているようであるが、実は殆ど同じことなのである。

 おおづかみにいえば、孤立した自己が全体の中に、少なくとも何か自己以外のものに結ばれることによって、孤立した自己の不安を解消したいということである。

 成功したいということと、失敗を避けたいということは裏と表の関係であり、それは人に認められたいということであり、自尊心を傷つけられまいとすることである。

 いわゆるこうした欲求は安全欲求であって、他のすべてより先に満たされることを望んでいる欲求である。

 人は選択の自由を有する時は先ずこの欲求から満たされることを望むのである。

 しかしこうした強烈な欲求はまことに残念ながらそこに何ら創造的、建設的、発展的、進歩的、真理追求的、使命感的な性質はない。

 こうした欲求が満たされることによって決してそのままでは成長することも、また何かが豊かになることも、何かが増大することもない極めて低い欲求なのである。人よんでこれを低次の欲求という。

 こうした欠乏動機による行動は一切の真理を犠牲にする。

 優れたるものを優れたるものとして賞讃するのではない。単に他人にとり入るために賞讃するのである。学問のために学問をするのではない。先生にほめられる為に、世間に認められるために勉強するのである。

 欠乏動機による行動はたえず他人の御気嫌とり的行動である。千万人といえどもわれ行かんという意気はない。

 自己に信頼をおいてゆったりと呼吸しているところがない。その行動の反省は良心の反省ではない。うまく他人が自分の行動を感嘆してくれたかどうかということである。

 そこには強烈にきびしい自己反省はみじんもない。自らの神はなく、他人の気持のみがあるのである。みごとなる自己放棄。

 それでもわれわれ現代人は他人を気にする。常識を、世論を、世間体を気にする。

 三十歳の娘はたとえ愛していない男とでも結婚する。真に愛する者と結ばれたいと願う気持が本来の人間性であろう。

 結ばれるなら愛するものとでなければいやだというのが人間性である。それが人間性の発揮を通じての他者への融合である。

 しかしわれわれ現代人は人間性を犠牲にしても他者へと結ばれようとする。

 たとえ愛していなくても結婚することによって世間の目にかない世間に受け入れられようとするのがわれわれ現代人である。

 分離した自己が、自らの人間性を犠牲にして他者へ融合した時にはそれは真の融合とはならず、かりそめのうわっつらだけの融合であり、心の底からくる安定感ではない。

 それでもわれわれは気休めをのぞむ。自己を固持して娘でいる苦しみよりも、自己を放棄して結婚する苦しみをえらぶ。

 欠乏欲求というものが、如何に激しいかをわれわれはたえず知るのである。浪人時代の或る日の日記にこんなのがある。


 『生きることの価値を自らが感じる。生きることの素晴らしさを生命の湧き上る喜びの中で悟る。他人によって自己の存在を認めてもらうのでない、自らの存在を自らが感じる。

  アルバムを見ている時、山から山へ、海から海へ、友とさまよい歩いた青春を想い起こした。そしてふっと、自分が死んだあとで、このアルバムがどうなるのだろうと考えると……、人生に於て、自分は愛以外の、信頼しあい尊敬しあった友以外の何物をも求めないという気持になる。心と心の深い交流の中で友と一つにとけあった心の素晴らしさを感じる時、僕は生涯そうした愛の中で生きていきたいと願う。

  友を他人と感じず、友の幸せを我が幸せと感じながら人生を楽しく生きていきたい。口先だけの誠意や、口先だけの愛、口先だけの尊敬でなく、互いの日常の行動の中でにじみ出てきた愛を大切にして生きていきたい。

  人間というのは、どんなに口先だけがうまくなっても、互いにふれあった時に心のかよい合いを感じない人もいる。

  ストーブの上でのヤカンのたぎる音をききながら、人生のほのぼのとした本質にふれる。生きるということは愛することだ。人生に愛以外の何があるだろうか。愛とは、人と人との関係である。

 “人がいい”ということはいいものだ。“人がいい”というのを馬鹿にする奴はエゴイストである。そういう奴は結局において孤独な不幸な人間だ。僕は“人のいい”人間と付き合いたい。暖かみのある人間と付き合いたい。

  テニスにいく時、何故あんなにまで楽しいのか――、一緒にテニスをするということだけが楽しくて、一緒に喫茶店でダベっていることだけが楽しくて、テニスにいくからだ。

  お互いに利用してやろうとか、何か目的があっての招待でないからだ。接待マージャンはまっぴらだ。こういう付き合いはしたくない。一緒にテニスをすることが楽しくて、楽しくて、ただそれだけの目的でテニスをする。僕にとっては球ひろいみたいなものだ。正直いって、打ち合うということはなかった。しかしそれでも楽しかった。他に目的がなかったからだ。

  お互いに付き合うことが楽しくて付き合う、その結果として世話になったり、めんどうみたりして助け合うことはまた楽しい。しかし利用するために親しくなるのは、まっぴらだ。それなら貧しく地位がなくても気楽に生きていきたい』


 欠乏欲求の満足の供給源は他人である。

 どうしても他人の世話にならなければならない。他人に尊敬してもらわなければならない。

 如何に自分一人で努力しても満足されることのないあわれなる欲求である。そこには独立性、自立性はない。

 生物学者は、生物の進化、過程全体を示す特色は独立性、自立性であるというにもかかわらず、われわれの欠乏欲求の満足を求める態度は全く非自立的、従属的である。



     (二) 他人指向型


 日本人は「他人指向型」といわれる。その文化は「恥の文化」といわれる。あわれなる非自立的人間であり非自立的行動である。

 日本人の親は子を叱る時に「そんなことすると皆に笑われますよ」という。

 皆に笑われて軽蔑されることを最もおそれていればこそ、親はこのようにしかり、子はいうことを聞くのである。

 欠乏欲求のみたされた時の気持は次のようなものである。

 夜一人で留守番をして二階にいる時、一階でコトッという音がする。泥棒でもはいったかと思って、はたきをもってそっと下におりていく。下の室は真暗。思いきってパチッと電気をつける。と、さっと猫が魚をくわえて逃げていった。

 その人はホッとして、なーんだ猫だったのかと思って胸をなでおろす。その時の気持が欠乏欲求を満たされた時の気持である。

 あるいは試験の時カンニングをして友達と同じ答案を書いてしまった。試験答案を提出してしまってから何だかバレやしないかと思って心配でたまらない。

 発表があった。バレずに合格した。ホッとした気持とその中で何か満足し切れない何かが残る。欠乏欲求の満たされた時の気持はみんなこんなものである。

 真実の愛なくして三十娘が結婚をした。負け犬といわれることから解放されて胸をなでおろす。

 しかし本当に好きな人と結婚したのでないから何か満たされない気持が残る。

 欠乏欲求は人からの気持によって満足されるもので極めて低次の欲求である。

 そんなことをするとみっともないからしない、こんなことをすると恥をかくから止めるということである。

 心理学者によれば、人間は先ず低次の欲求満足を求めて行動するようになるという。

 その行動動機は欠乏動機から成長動機へとかわっていくというのである。

 成長動機のことに入るまえにもう一度欠乏欲求は満たされても、そこにはやはり満され切れない自我が残るということをはっきりさせておこう。

 成績の悪い大学生がいる。彼はクラスの人に頭がいいと思ってもらいたいという欠乏欲求をもっている。

 彼には高校時代の悪友のグループがある。彼はよくそのグループの連中と遊ぶとする。

 すると、彼は大学のクラスの連中に自分が成績が悪いのは高校時代の悪友と遊んでいるからで決して頭の悪いためではないとクラスの連中にたえずいっていなければならない。

 大学のクラスの連中が今、彼のいう通りだと思ったとする。クラスの連中に対する彼の欠乏欲求は満たされた。

 今度は彼の高校の悪友からさそいを受ける彼はその時試験勉強をしなければならない。

 しかし、高校の悪友からがりがり猛者の点取り虫と思われたくない。彼は大学の仲間と遊ぶ約束があるといってことわった。

 彼の悪友への欠乏欲求も彼は満たされた。しかし、その時の彼の気持はどうであろうか。

 一体自分は何のために生きているんだ? という疑問が頭をかすめるにちがいない。



     (三) 孤立した自己


 欠乏欲求はたとえ満たされても、それは決して孤立した自己の外界への真の復帰とはならない。

 孤立した自己はやはり孤立したままで残る。彼は世間に対して偽った自分を示し、本当の自分の姿はかくして、誰にも本当の自分の姿は見せないで、それで偽って、よそおった自分を受け入れてもらおうとする。

 欠乏欲求を満たそうとする場合に決して本当の自分の姿を示すことはできない。常にいい自分を世間には示す、だが、実は本当は自分は頭がわるいと気付いている。

 そこで自分を頭のいい人間に見せるために色々と画策をする。そして世間に頭がいい人として受け入れられる。

 しかしたとえ受け入れられ欠乏欲求は満されても、本当の自分はやはり孤立している。うしろで画策する自己は一人である。

 たとえば今世間の常識的道徳として酒を飲むことは非常に悪いことだとする。
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