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あなたは何を信じて生きるのか 確信の喪失
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政治・社会
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第一章 確信(コンフィデンス)の喪失

『あなたは何を信じて生きるのか 確信の喪失』
[著]西尾幹二 [解説]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間5分
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 世界は手づまり状態


 世界はいま大きく、急速に変化しておりますが、同時に身動きならなくなっているようなところも見受けられます。身動きならなくなっているというのは、どの国でも政治に対して国民の期待が非常に高いにもかかわらず、あらゆる面で手づまり状態で、政治の無気力、政治家の無能といったことが著しく露呈しているからであります。これはもう先進国、後発国を問わずに、広くそういう状況に陥っております。


 この状況を一言で言いあらわすと、「コンフィデンスの喪失」ということになるのではないでしょうか。コンフィデンスとは、確信とか自信、あるいは見通しの確かさということでありますが、そういうものをすべて喪失してしまっているという意味です。


 ソヴィエトが崩壊したことによって、自由主義、民主主義は確信を新たにしたと一見思われるわけなのですが、必ずしもそうはなりませんでした。共産主義のイデオロギーだけでなく、至るところでその正反対の価値観もまた壁にぶつかっているのです。


 第一にあげられるのはアメリカの状況の急変で、湾岸戦争からロス暴動に至るまでのアメリカの変貌は本当に驚くべきものでした。湾岸戦争におけるわきたつような勝利感から絶望のどん底へと、一気に落ちこんでしまったのです。


 ブッシュ大統領は湾岸戦争で九五パーセントもの支持率を獲得して、当時、誰一人として再選を疑う者はおりませんでした。にもかかわらず、わずか半年後には再選が危ぶまれるという考えられないような事態が起こり、そしてついに一九九二年十一月の選挙では、民主党のクリントン候補が第四二代大統領の座を手にしたのです。最初まったく誰もが夢にも予想していなかったことでした。


 この事実ほどアメリカの政治の、あるいはアメリカの精神状況の不安定さ、不確定さを物語っているものはありません。


 ということはクリントンもまた、こらえ性のない、短気な今のアメリカ国民から、そう遠くない時期に、あっという間に見捨てられるという危険を抱えているということを暗示しています。国民がコンフィデンスを失っているというそのことに原因があるからです。この大元の原因が治らなければ、これから何度でも同じことが繰り返される可能性は避けられないのかもしれません。


 ではアメリカはいったい、なにに対してコンフィデンスを喪失しているのでしょうか。ご存知のように、アメリカ経済にはいろいろな問題があります。赤字をたくさん抱えている、生産性が上がらない、競争力が落ちている、勤労意欲が低下している、短期利益ばかりを求めて長期の展望を持たない、企業家精神を失っている、投資の活力が衰えているなど、さまざまに言われております。


 しかし経済現象というのは、背後にある精神的な原因から帰結しているものです。と考えれば、投資が冷えている、あるいは企業家の活発な精神が衰えているというのは、なにか新しいことを企てるのを逡巡させるような心理状況があるということになります。不安定とか混乱があれば、当然、リスクに賭けてみようという企てや試みが抑えられます。そのため世の中は停滞します。したがってアメリカの停滞にしても、経済現象は結果であって、根本的な原因はむしろもっと心理的、精神的なものだと思われてなりません。



 アメリカの夢の終焉


 一言で言うと、支配することの知恵と自信の喪失ではないか、と私は思っております。アメリカの支配というより、白人指導階級の支配と言った方がいいかもしれません。じつは支配することは、支配されることと同じなのです。支配する人間がいるということは、支配される人間がいるということと同じになります。


 支配という言葉が、もし、きな臭く聞こえるなら、統治と言い換えてもいいでしょう。つまり統治する自信の喪失とは、統治される側の統治のされ方や覚悟を含めて、統治のメカニズムそのものがこわれてしまったことを意味するのではないかという気がいたします。統治することの孤独な覚悟、統治されることへの静かな忍耐、それが秩序意識をつくるのですが、いま秩序意識が急速に崩壊し、結果がロス暴動に端的にあらわれたのではないでしょうか。


 政治は大きな期待を背負わされています。しかしアメリカ国民がいくら歯ぎしりしてもどうにもならないようです。アメリカの夢はついに終りを遂げてしまったのかもしれません。すなわち、政治への大きな期待と政治家の無力さが同時に露呈しているわけです。


 これは近年に始まったのではなく、かなり前から始まっていたといえます。アメリカがベトナムに介入し、ベトナム戦争の火蓋が切られたのは一九六五年のことですが、この戦争が泥沼化した一九七〇年頃から、アメリカでいろんなことが変わってきております。ブラックパワーが爆発し、公民権運動が盛んになり、人種差別に関するありとあらゆる表現がタブー視され、アメリカの表の世界から否定されていったのです。


 アメリカというのは、基本的には大変な人種差別の国です。黒人が参政権を獲得したのは一九六五年(昭和四〇年)になってからであり、それ以前のアメリカはある面ではとんでもなく遅れた国でした。


 けれども、統治することにも、統治されることにも、アメリカ国民の誰もが労をいとわなかった時代には、二つの力の間には──必ずしも白人と黒人の間の力だけではありません──あるバランスが成り立っていて、それがアメリカの強さの要因でもありました。しかし今のアメリカに起こっていることは、一口で言えば次のように言えるのではないでしょうか。


 アメリカではもう誰も本気で国民を統治しようとしません。国民もまた誰一人本気で服従しようとしません。どちらも今の人間には、ただもうひたすら面倒なことであり、煩わしいことであり、気が進まないからであります。誰でも人間はみな平等だと言っていれば一番気が楽で、うるさいこともなにもありません。そしてそのうち、なにか大切なものを、アメリカ国民は失ってしまったのではないかと思います。



 アメリカの「文化大革命」


 私が中学生の頃、「民主主義」と名づけられた教科書がありました。もちろん、今はそんなものはありませんが、そこにはイギリスの民主主義が模範だとか、アメリカの民主主義はこうで、スイスの民主主義はああだというようなことが書かれていました。民主主義のモデルを日本人に一所懸命教えるための、そして日本は民主主義でなかったから戦争を起こしたのだということを教えるための教科書でした。われわれはアメリカやイギリス、スイスなどの民主主義をモデルにして、修身の徳目──忠君愛国などといった──の代りを与えられていたという記憶があります。


 その頃の日本人は、何でも外国が正しくて、日本はダメだという非常に愚かな罪責感にとらわれていました。アメリカの富、ソヴィエトの平等、イギリスの議会制度、そしてスイスの平和主義の四つを混ぜ合わせたものが日本の理想であって、中には「それこそわが党の党是である」といった野党の党首がいたくらいです。それが誰だったか、年配の方なら覚えておられると思います。


 しかしこれほどばかばかしいことはなかったといわざるを得ません。アメリカの富の背後には黒人差別があり、ソヴィエトの平等主義の背後にはいわゆる新特権階級がありました。イギリスの議会制度は、まさに階級制度の産物みたいなところがあり、スイスは平和主義と言ってみたところで、じつは武器の輸出国であり、かつ国民皆兵の重武装国家であるということがだんだん分って来たのです。


 私が中学生や高校生の頃に一所懸命習ったアメリカの民主主義というのは、まるで理想の中の理想のようでした。グレース・ケリー主演の「上流社会」というような映画を見ては、アメリカ人の生活をまるで花園のように思ったものです。


 しかしあの頃、われわれが見たハリウッド映画というのはアメリカ占領軍に完全に統制されていて、黒人問題や貧民層を描いた映画は、占領政策の一環として日本では上映が禁止されていたのです。ハリウッド映画には、もちろんアメリカの暗部を描いた映画もあったわけですが、日本ではそれが上映されなかった。


 ケネディが暗殺されたときに、ようやく“ピストルを持った民主主義”というようなことが言われ、はじめてアメリカ社会的暗部が露呈するようになって来ました。これは言い換えると、それまではアメリカも社会的暗部を押さえつけることが出来たということであります。ところが、一九七〇年代ぐらいから、それが出来なくなるほどアメリカの社会が大きく変化してしまったのです。


 一言で言うと「文化革命」です。例えば極端な平等主義、あるいは女性解放運動。セクシャルハラスメントが政治家の運命を決めるなどということは、ケネディ、ジョンソンの時代には余り見られなかったことであります。数年前に、ハート上院議員が女性問題で大統領候補から外されるという事件がマスコミをにぎわしましたが、それまではアメリカでも、こういう話題は政治の世界で余り問題にならなかったのです。


 一九六〇年代後半から八〇年代にかけて、この「文化革命」がアメリカを覆いつくし、逆平等、逆差別みたいな感情さえ出てくるようになりました。例えば企業は、必ず心身障害者を社員の何パーセントは雇用しなければいけないとか、大学の入学者の中に黒人を何パーセント含めなければいけないとか、成績が悪くても入れなくてはいけないとか、婦人の登用を数字の上で明示しなくてはいけないとか、そういう事柄が、非常に強くなってきて、今度はそれが行き過ぎてしまい、本来の有資格者が不利になるという傾向さえ見られます。八方に気がねして出来たクリントン内閣は、その見本みたいなものかもしれません。


 こうした意識の変化は、アメリカでは、たしかに非常に急速に進みました。勿論、私は平等が悪だと言っているのではありません。人はすぐ道徳の尺度で考えたがるので、私が以上のように言うと私がまるで不平等を道徳的に美化しているように思うのかもしれませんが、ここではひとまず善悪の判断を脇へよけて考えてみてください。否、平等は善だという前提で考えてもいっこう構いません。平等はどこまでも善ですが、アメリカ国民は歴史の進展につれて、平等という一つの善を獲得したが、その代りに秩序というもう一つの善を犠牲にしたと考えればよろしいでしょう。


 ともかく善悪の尺度で政治を考えないこと──これがなによりも大切な心構えの一つだと最初に言っておきましょう。



 言葉を持たない日本の首相


 言うまでもなく、日本でも、統治する者に孤独への覚悟はなく、統治される者に忍耐への喜びはもうありません。アメリカと同質の精神の無秩序が広がっています。民主主義は日本をも小型アメリカと化し、同じタイプの「コンフィデンスの喪失」に、この太平洋の対岸の国も見舞われていることはどなたも知っています。その意味では、地球上どこへ行っても同じ時代には同じ課題があるともいえますが、国によって同じ「コンフィデンスの喪失」といっても、あらわれ方がそれぞれ違うように思います。


 日本の場合、「コンフィデンスの喪失」はロス暴動のような人種対立にはなりません。しかし政治への国民の期待の高さと政治家の無力との間のへだたりは、アメリカ国民同様に大きいのです。しかも日本の場合は政治家がそれを一番はっきり示しています。まず国民の総意をきちんと代弁できない政治家たちの言葉の喪失、メッセージの喪失という形をとってあらわれているのではないでしょうか。


 それは、手近な例でいえば、宮沢首相に端的にあらわれていると思います。宮沢首相については、知性派であり、外交に長けていること、経済運営にも優れているというようなことで、われわれは大いに期待していました。しかし今では、宮沢首相ほど言葉を持っていない総理大臣はいないということがはっきりしてきました。歴代の日本の総理大臣の誰もが言葉を持っていないのですが、宮沢首相は国民に対しても、世界に対しても、いまだになに一つメッセージを発していません。

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