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あなたは何を信じて生きるのか 確信の喪失
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政治・社会
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第三章 勝者の論理 敗者の論理

『あなたは何を信じて生きるのか 確信の喪失』
[著]西尾幹二 [解説]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間2分
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 二一世紀の新しい局面


 私たちは歴史的に今、思ってもみない新しい局面を迎えている。すなわち、旧共産主義諸国をこれからどう支え、どう背負っていかなければいけないかという、ちょっと手に負えない現実に直面しております。しかも西ヨーロッパと東ヨーロッパの関係を見ていますと、東ヨーロッパの苦境というものに西ヨーロッパが必ずしも深い関心を示さない、あるいは無力である、という状態が続いております。


 したがって今後ロシアになにかが起こっても、世界が一丸となって、湾岸危機に臨んだような対応をする心の用意も、能力も持っていないのではないかという気がいたします。


 ここで一寸、二〇世紀の歴史というものを振り返ってみますと、二〇世紀は科学技術がとてつもない進歩を遂げた一〇〇年でした。実例をあげるまでもなく、一種の加速度とともに──例えば前半の五〇年で達成した科学技術の速度よりも、恐らく後半の二五年間はさらに速く、またその残りの二五年間のうちの半分、一二年間はさらにまた速いという風に一種の加速度がついて──科学技術は発展して来たように思えてなりません。そしてそれが、世紀末に来て、限界にたどり着きつつあるのではないか。


 いや、科学はさらに発展するでしょうけれども、問題は私たちの地球上の文明で、そうしたすさまじい勢いで発展する科学技術の速度というもの、あるいはそれの恩恵、これからも引きつづき起こる開発力というものに、参加出来る文明と、参加出来ない文明とに、はっきりと分かれて来たということです。そしてその格差は広がる一方で、参加出来ない文明はどのように背伸びしても、どうにもならないという状態が発生しているように思えてなりません。


 これは、なにが原因か分りませんが、私の仮説では、産業革命──イギリスの産業革命から一〇〇~一二〇年以内に離陸した文明と、そうでない文明との違いだという風に思えてならないのです。NIES諸国、いわゆる東アジアの経済急成長国もよく考えてみますと、じつは一二〇年以内に離陸しているんですね。こんなこと言うと、韓国の人は烈火のごとく憤るかもしれませんが、韓国と台湾は日本の統治時代に、それからシンガポールと香港はイギリスの統治時代に一種の離陸を果たしている。その時代に、国民教育の達成とか、交通網の拡充とか、いろんなことがあったと思うんです。


 そうしますと、その時期までに時間的に間に合わなかった地域というのは、今後新しい文明に参加するチャンスを奪われているわけであります。それが、われわれがこれから迎える、いわば南北問題とか、地球環境問題とか、それから持たざる国を持つ国がどんな風に援助し、どんな風に支えていくかという課題に深くつながるであろうと思うのです。



 マルクス神話の崩壊


 しかしじつはいちばん大きな問題は、旧共産主義諸国がこの持たざる国の文明に全部入ってしまう可能性があるということです。これは、私たちにとって、予測も出来なかった事態なのであります。


 マルクスが登場してから、約二〇〇年経つわけでありますが、とりわけ一九世紀の終わり頃、マルクス主義は日の出の勢いで、ありとあらゆるものの考え方にマルクス主義が忍び寄った。そしてそれから一〇〇年を経て、私たちはついこの間まで、マルクス主義が現実に適応しなくなったということは薄々感じ、かつマルクス主義の諸国家が、生産性において不適合現象を起こしていることは認知したにもかかわらず、何となく資本主義はやがて克服されて、社会主義社会に変わるものだという、マルクスの唱えた発展段階的な歴史の必然性を信じてはいないけれども、信じるかのごとき、半ば信じるようなイメージでずっと生きて来たと思うのであります。


 つまり完璧なイデオロギーを信じる者はもういなかったけれども、そしてマルクスその人の思想にはもう魅力がなくなっていたけれども、しかし何となく歴史の必然というものはあるかのごとき幻想がずっとあって、いまだにわれわれもそういう教育を受けて来た過去を引きずって来た思いがあるのです。


 例えば一例をあげると、フランス革命をどうとらえるかという問題があります。これまでは明らかに階級闘争史観でとらえられていました。すなわち、古代奴隷制から封建制へ、封建制を打倒して、それが次の市民革命になって、完全な市民革命というものをつくって、そしてそれが次のプロレタリア革命に引き継ぐんだという、歴史の必然段階説というものから考えられて来たフランス革命像であったわけです。


 これは大体一九世紀の末にソルボンヌ大学に、フランス革命史講座というのがはじめて生まれて、そこの歴代の教授がマルクス主義者であった。マティエ、ルフェーブル、ソブールのトップに立った三人が有名で、影響力も大きく、二〇世紀のフランス革命の見方というのを決定して来たわけであります。


 彼らはいわばマルクス主義の見方によって、階級闘争史観でフランス革命を解釈し、また革命以後のヨーロッパの近代史というものを見ていた。


 じつは、私たちが中学生、高校生のときにひもといて来た歴史の教科書というものは、日本の歴史学会というものが大半、そうした色彩で染められておりましたから、何となくそういう歴史観で書かれております。われわれが習った世界史、あの世界史の叙述を見てください。基本的にはマルクス主義には決して厳密には立脚していないけれども、大体が階級闘争史観で書かれています。近代の歴史というのは。


 しかしそのこと自体がじつは、フランス本国において崩壊しているんです。続々と六〇年、七〇年代ぐらいから、今までのマルクス主義的な歴史観にもとづくそうした革命像──つまり革命をした国は必ず進歩発展するという神話──が崩壊しつつあります。革命をした国が停滞するという現象さえ目に見える。


 ロシアがそうであったし、じつはフランスもそうであった。フランスはついにいまだに産業資本主義を成功させていないということですね。そして革命をしなかったドイツや日本は後進国であったのでありますが、その先進国、後進国という図式そのものがおかしい、というものの見方が新しく、新しい歴史の現実で訂正せざるを得なくなって来ている。


 それから、革命をした国々はみな、きわめて保守的に変わった。すなわち、革命そのものは非常に白熱的な変動をもたらすわけですが、それは一時代の話であって、その直後の価値観に固定されてしまって、一種の停滞現象を生む。のみならず、革命したあとの国家体制というものは、意外と革命する前の体制の性格を引き継ぐ傾向が非常に強い。


 例えばスターリンの独裁国家が帝政ロシアのツァーリズムの色彩をとどめていて、非常によく似ているといわれますが、今日のフランスを成り立たせている高度官僚国家、きわめて官僚制の強い国家というのは、じつはブルボン王朝が革命前にすでに着手していた企てが、ナポレオンを経て強まったということであって、言ってみれば革命はなにも新しいことをもたらしていないではないかとさえ言えるわけです。


 のみならず、損得計算をすると、革命をした国はかえって保守化し、かえって反動を招いて、マイナスになるというような考え方がフランス本国において続々と出てきて、一九八九年の革命二〇〇年祭の頃には、フランスのマスコミがちょうどそういう自己懐疑を述べ立てる時期を迎えました。そのフランス革命二〇〇年祭に、ゴルバチョフの幕引きと言うんでしょうか、ベルリンの壁の崩壊、そしてそれにともなう旧共産主義国家の崩壊と、まさしく二〇世紀の鐘の音を鳴らしたマルクス主義の交代劇というものがはっきりとしたのは、偶然とはいえ、とても象徴的でした。



 地図なき世界の時代


 考えれば考えるほど、感慨無量なのであります。なぜならば、マルクス主義の考え方では、ブルジョア民主主義というのは乗り越えられるべき対象であった。あるいは、市場経済というのは呪うべき対象であった。ところが乗り越えられるべきブルジョア民主主義が、再興されるべき対象となり、呪うべき市場経済が、今や憧れの対象となり、学び直さなければならないことになったわけでありますから。


 これはもう、完全な歴史観の挫折であります。言ってみれば、歴史の逆戻りです。少なくとも今までの私たちの頭の中にあった歴史像ということから考えれば、歴史の逆戻り現象というものが歴然と見えて来た。歴史の逆戻りということは、一九八九年に起こった出来事が、あれは革命ではなくて、はっきり言って反革命であったということにならざるを得ないのではないかということであります。


 さて、そうなったときに問題なのは、われわれの心の中に何となくばくぜんとあった未来イメージというもの──それが社会科学的、マルクス主義的な意味で抱いていたものであったにせよ、ないにせよ──未来への世界像というものが、行きづまってはっきり見えないということでしょう。あるいは、そういうものがすべてなくなったというのが明らかになったということでしょう。


 考えてみると、そんなものははじめっからないのであって、われわれは、マルクスであれ誰であれ、人間がつくり上げた「歴史」などというものはもともと持っていないはずのものなのです。われわれは果てしないニヒリズムの時代を迎えているのです。これからは、なにもない時代、つまりいかなる夢想もいかなる空想も存在しない時代、しかしそのことが再び恐るべき空想や、恐るべきパラダイスへの夢を引き起こして、それがまた惨劇を繰り返すということはあるかもしれませんが、しかし少なくとも、それもまた錯覚で、人類はもうなにもない空間を、これから永遠に生きていくことになるのではないかと思うのであります。いわばイメージなき世界、あるいは地図のない世界、羅針盤のない大海を、われわれは歩んで行かなければいけない時代に入っているのだと私は思っております。



 解消しない東西ヨーロッパの対立


 さて、そういうときに、目の前で起こっていることを一寸考えていただきたい。東ドイツを抱えた西ドイツ、すなわち、ドイツで今起こっている出来事を見ますと、およそ予想もしなかったいろんなドラマが起こっていて、ドイツは困惑と混乱に直面しているのであります。


 私の感じでは、これは旧ソ連圏や旧共産主義諸国を抱えていく西側資本主義国家の運命を暗示しているのではないか、と思えてなりません。つまり東ドイツという一国をドイツ全体が抱えて、そして四苦八苦しているありさまというのは、先ほど私が申し上げましたように、南側の国に、すなわち生産性が落ちてどうにもならない、離陸出来ない前近代的国家群の中に、歴史の破産からすべての旧共産主義圏諸国が入ってしまうということになる。


 それをこれから支え、抱えて生きていく先進工業国の未来というのは、いったいどういうことになるんだろうか。このことをいわば雛形のように実験してみせているのがドイツなのではないか。ドイツが先駆的に実験をしているのではないか。というようなイメージを、私はじつは今予感として持っているわけであります。


 私が一九九二年春の東ヨーロッパの旅でいちばん大きな驚きを感じたのは、ベルリンの壁が落ちてから三年近く経っているにもかかわらず、二つの陣営──西ヨーロッパと東ヨーロッパの市場(マーケツト)、あるいは、西ベルリンと東ベルリンのそれ──がまったく溶け合っていない、まるで違う世界のようにいまだに対立し合っていることです。

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