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あなたは何を信じて生きるのか 確信の喪失
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政治・社会
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解 説

『あなたは何を信じて生きるのか 確信の喪失』
[著]西尾幹二 [解説]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


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佐伯啓思 



 評論家の故福田恆存の文章に「一匹と九十九匹と」と題するものがある。氏の数ある評論文のなかでもよく知られたもので、昭和二十一年に発表されたにもかかわらず、今日でも時々引用されたり言及されたりするものだ。これは、何よりも文学というものに対するその決然たる態度によって、一度読むと容易には忘れがたい印象を与える評論で、この中で、福田は、文学と政治を峻別して、次のように述べている。政治は九十九匹にかかわるが、文学は、迷い見捨てられた残りの一匹にかかわる、と。文学が、この失せたる一匹を見捨てたなら、一体、この一匹は何によって救われるのかと、彼は述べる。


 ここで、私は、聖書のルカ伝から取られたイエスの言葉に福田がいかに独自の解釈を施したかを論じたいわけではない。そうではなく、その決然たる言葉の内に、評論というものの宿命と使命が、これ以上ないほど簡潔に言い表されていると感じるのである。


 むろん、福田は、だから政治はつまらないとか、政治に絶望するなどと言っているわけではない。それは次の彼の言葉からも明らかだろう。「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救いを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する」


 福田恆存のこの評論について書いたのは、実は、西尾幹二氏の評論を読むとき、私は、いつも、福田の「一匹と九十九匹」を思い出してしまうからである。西尾氏が小林秀雄や福田恆存の影響を、特に福田の影響を強く受けたことは、氏自ら述べておられることからも明らかである。そのように言うと、ある人たちは、たちまちしたり顔をして言うだろう。なるほど、小林も福田も、戦後のいわゆる進歩的知識人の敵対者だ、そして、西尾はその有力な後継者だ、と。しかし、それこそ、つまらない政治化された文学(評論)の理解にすぎない。


 福田恆存も西尾氏も確かに、戦後の進歩的知識人や文化人と呼ばれる思考の類型を嫌悪したであろうことはまちがいない。しかし、西尾氏が福田恆存の後継者だという意味は、反進歩的であるとかどうとかいうことではなく、まさに、「失せたる一匹」の側に立とうとする決然たる態度をその評論の基礎に置いているからに外ならない。そしてそれこそが、評論というものを成り立たせるのであり、このような精神を放棄すれば、そのとたんに評論は、二束三文で売り飛ばされる駄文に堕してしまうことを知っているのである。


 多分、こうした評論の成り立ちうる根本的な条件を知っている者だけが、評論という活動に手を染めることができるし、また真に力をもった評論を書くことができるのだろう。そして、まぎれもなく、西尾氏の文章は、現在、われわれが読むことのできる真の力をもった評論の数少ないひとつと言わなければならない。


 福田恆存が戦後すぐに書いたことは、驚くほど現代にもあてはまる。「悪しき政治は文学を動員しておのれにつかえせしめ、文学者にもまた一匹の無視を強要する」という彼の言葉は、「文学」を、「評論」や「ジャーナリズム」に置き換えれば、そのままこの時代にあてはまる。しかも、あまりに多くの評論家やジャーナリスト気取りが、「強要される」より以前に自ら政治につかえるのである。とりわけ、平和やヒューマニズムや自由や民主主義という聞こえのよい言葉を連呼することで評論がなりたつと思い、実は、ただ政治につかえているだけという評論が横行しているのが戦後の日本であった。福田やそして西尾氏の進歩的文化人に対する深い違和感もそのあたりにあったのだろうと思う。


 人はいうだろう。一体、平和やヒューマニズムや自由のどこが悪いのか、と。むろん、それらは結構なものである。しかし、人間はそれほど単純にはできてはいない。平和愛好的であるにもかかわらず、人は保身や名誉のためにいくらでも争い、殺戮をおこない、自由を与えられれば、人は限りなく堕落もし、また退屈もし、あげくの果てに自ら自由を放棄するのである。このような矛盾を抱えているのが人間という存在にほかならないのだ。


 ニーチェの研究から出発した西尾氏の評論が、このような意味での、複雑怪奇な人間存在を凝視することから思考を開始していることは言うまでもない。そしてそこに氏の評論の力があることもいうまでもない。同時に、忘れてならないことは、このような人間観が、最も力を発揮するのは、まさに社会や政治評論においてなのである。西尾氏自身、あるところで、自分の評論がすぐれて「社会的」であることを指摘されて驚いたと述べておられるが、これは何も不思議なことではない。人は、社会や政治の世界でこそ、とりわけ多面的で矛盾した存在となるからである。


 ところが、誠に奇妙なことに、政治学者であれ、経済学者であれ、社会学者であれ、社会科学者は、この多面的で矛盾した存在としての人間理解がきわめて貧弱なのである。もっと言えば、社会科学者には、そもそも人間理解などという関心はない。彼らは、ただ、人の「経済行動」を、「政治行動」を、「社会的行動」を、ただトレースするだけなのである。


 だから、しばしば、西尾氏の社会評論の方が、社会科学者のそれよりもはるかに的を射ており、実際、大きな論議を呼ぶことがある。


 これは当然のことなのである。わたし自身、多くのことを西尾氏から学んだ。中教審にかかわった経緯から発した教育の自由の問題、外国人労働者の問題、戦後の戦争責任や賠償に関するドイツと日本の立場の違い、信教の自由と国家の関係、それに社会主義崩壊以降の東欧における自由の意味。こうしたことがらは、この数年、西尾氏が、時には激しく論争しつつ、世論に対して、するどく揺さぶりをかけたテーマであった。


 とりわけ、ドイツと日本の戦後の根本的な相違を説いた評論のインパクトは記憶に新しい。これは『異なる悲劇 日本とドイツ』に詳しいし、また本書でも展開されている。いずれにしても、西尾氏の評論を通底するテーマは、人間の自由というもののもっている矛盾(それは人間存在の矛盾そのものである)、そしてそのことにあまりに無関心な戦後日本人の無邪気さにかかわっている。


 本書は、西尾氏の評論の中でも、特に読みやすいものである。それは本書の成り立ちが講演をもとにしているということもあるが、それよりも、ここで扱われたさまざまなテーマと、彼の評論を通底する関心が見事な形で切り結ばれているからであろう。

「あなたは何を信じて生きるのか──確信の喪失」というタイトル自体が、実に的確に現代日本を指し示している。西欧の力と思想にふりまわされ、自らの「確信」を喪失したのが今日の日本である。そのことが、今日の政治の混迷とジャーナリズムの混乱、知識人の無気力をもたらしている。日本は、日本の宿命を凝視するところからしか「確信」を回復することはできない。そのように著者は訴えているようにみえる。


 この本は平成五年(一九九三年)に出版されているが、むろん、今、改めて読んでみても、全く色あせてはみえない。その後出版された、『全体主義の呪い』や、先程あげた『異なる悲劇 日本とドイツ』、それに『自由の恐怖』などとあわせて読むと、われわれは、そこに現代日本を見る最も確かな指標を読み取ることができるだろう。

(京都大学教授)

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