ミサイルは、発射命令を出せば確実に飛び出し、飛翔し、命中し、爆発するものとは限っていません。しかし、戦争の機械と機事についてリアルに知らぬ人は、ついそのように錯覚しがちです。
軍隊は、上官が命令すれば、全員で何でも実行する――。そのように思っている人も多いでしょう。
しかし、近代的軍隊ですら、パニックになったり、命令に従わなかったり、暴走したりすることがあるのです。
ましていわんや、現代の諸国の勝手きままな大衆は、誰かが号令しただけでは、動きはしません。
おおぜいの庶民を、政治的リーダーが簡単確実に束ねられる方法は、まだ発見されてはいません。
古代シナの遊説家は、他の世界の政治哲学者たちも試みたように、それを発見しようと模索しました。
その一つの成果が『孫子兵法』です。
「死地」をつくりだせる政治家しか現代の衆愚を権力源にはできない
古代シナの兵卒は、すなわち農奴でした。
農奴をかきあつめた部隊を、貴族の将軍が率いて、自国の勢力範囲外に連れ出す遠征戦争が、本書の「計

」でいわれる「兵」です。
その遠征戦争の目的は、新たな農奴をできるだけ多数、獲得することでした。金属器の普及にともなって、人手さえあれば開墾可能となる土地は、ありあまっていたのです。
ところが、農奴兵には、愛国心や忠誠心や勇気は、からっきしありません。
厳罰がこわいので、いやいやながら従軍しますけれども、内心では、いかに怠け、楽をし、怪我をせずに、逃亡や投降や裏切りをしてでも生き残り、家族のもとに帰れるかと、それだけしか、考えていませんでした。
そんな頼りにならぬ部下たちに、どうやってヤル気を出させて、敵部隊と生死をかけた激闘をさせることなどが、可能になるのでしょうか?
答えは、本書の「九地

」で説かれているでしょう。
指揮官は、彼らを

して、知らず知らずのうちに「死地」に投ずればよいだけです。
死地とは窮地のことではなく、大衆を束ねる意識的リーダーにとっての理想的なシチュエーションのことなのです。
このような秘術を堂々と教えるテキストが、シナでは、古代から現代まで、全国の有力政治家たちによって、珍重されてきた。なんとおそろしい政治先進国でしょうか。
シナでは、政治家は、集団を、国民全体を、死地に投ずる方法を知っていなければならないのです。この大衆操縦術は、冷戦時代の核抑止戦略にも大いに有効でしたし、ポスト冷戦時代の対アメリカ外交でも有効なのです。くらべ見て、わが日本の現代政治家は、どうでしょうか?
戦前の中国国民党から今日の中国共産党までひきつづいている反日教育や反日宣伝は、まさに、愛国心のないシナ大衆を「死地」に投じて支配力を固めるための工作の一環です。『孫子』を勉強していなければ、日本人と日本国政府は、ひたすら彼らの遠謀に翻弄されるだけとなるでしょう。
『孫子』は、大衆時代の今こそ、再読される価値がある軍事外交マニュアルであるといえます。
「孫子」は、数十人いた!
齊の国に生まれて、春秋時代の呉の王様であった闔閭(生年不詳〜前496年没)につかえた、孫武(生没年不詳)という人物が、『孫子』の作者なのだ、と『史記』には紹介されています。
が、本書をお読みになればご納得いただけますように、「孫子」を名乗ったり伝えようとした軍事遊説家は、戦国時代の前後、何十人もいたのだと考えた方がよいでしょう。
そして、それらの「孫子」は、いつしか継ぎ合わされ、連接されて1冊の権威にまで大成したのです。その間、多数の無名の編集者が介在し、工夫をこらしたにちがいありません。
最終的に、後漢の末から三国時代にかけて魏の王(武帝)であった曹操(生155年〜220年没)が保存をしたとされるテキストが、じつに西暦20世紀まで『孫子』として流行しております(ここでは「流行本」と総称します)。
ただし曹操自筆の『孫子』は伝存しませんので、わたしたちは、曹操以後に「曹操」を僭称した後代の無名の編集者も、いままでの流行本に痕跡を残しているのではないかと、疑うべきでしょう。
1972年に前漢代の墓が発掘され、古い竹簡の「孫子兵法」のテキストが部分的に、明らかにされてきました。本書では、もちろんその「銀雀山竹簡」テキストを珍重して訳文に反映をしておりますが、わたくしは、この竹簡文が唯一正当な『孫子』なのであるとも思いません。
むしろ、この竹簡テキストと流行本の「魏武註」とをくらべてみまして、「曹操」の加筆修正があまりに配慮が行き届いていることに、わたくしは吃驚し、ますます、複数の偉大な「編集者」氏の存在を信じたのです。
ともかく、孫子は何十人もいました。「曹操」もまたその一人だったのです。それが分かった以上、わたくしたちは『孫子』を、もはや一天才の統一された思想として読もうとするのではなく、想像を絶した古代から届けられた、無数の軍事/政治思想の断片的な化石の標本集として、味読した方が有益でしょう。
二〇〇八年二月二八日
編訳者 兵頭二十八 謹識