孫子いわく
およそ大遠征を行ないますには、馬で曳かせる戦車が数十数百台、物料運搬用の荷車が数百数千台、人員の装具や武器は数千数万も必要になります。しかもその軍隊を、300km〜500kmも推進するあいだ、糧秣の補給を絶やすことができません。部隊がわが国境内にあるうちから、重い負担がかかるのであります。
わが軍に協力を申し出た異邦人部隊へも、ただちに現金・現物の支給をせねばなりません。
弓矢の製作に不可欠な膠や漆、車輛や装具の材料も、国内の領民に供出させることになります。
戦争がおわるまで、こうした厖大な財政費出は、1日も止めることができないのであります。
そのようにして、はじめて大規模な遠征をおこせるのだということを、ゆめ、忘れてはなりますまい。
兵頭いわく
この「作戦

」では、すでに

算の結果、開戦と決断された後、いよいよ、ゼロから戦争を準備し用意を整える、そのさいの注意点を、説くのであります。
戦争をなしとげますには、まず、準備から立ち上げねばなりません。これが「作」の意味であります。「オペレーション」の意味ではありません。
荻生徂徠は、原典に「千里」とあるのを、これは「大数」であろうと解釈しつつも、念のため考証学的な換算も試み、その上で、だいたい人が歩いて10日かかる距離にほぼ一致するのだろうと書いております。兵隊が所帯道具を持って連続して歩けるのは、1日に30〜40kmくらいではないでしょうか。もちろん、シナ古代の1里と日本近世の1里は違う長さなのであります。
シナの弓は、合成弓と申しまして、水牛の角、羊の腱、材木等を、膠の接着力で層状に張り合わせて、コンパクトなサイズながら強靭な弾発力を発揮するのであります。ただし膠は高温や多湿の環境では溶解してしまいますゆえ、防湿のために、外側に漆を塗らねばなりませぬ。材料あつめからして、たいへん手間のかかるものですから、8世紀に吉備真備(生695?〜没775年)らが唐からその製法を学んでまいりましても、とうとう本朝では普及をしなかったほどなのであります。