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返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」
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政治・社会
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第五章 ソ連時代の北方領土交渉

『返還交渉 沖縄・北方領土の「光と影」』
[著]東郷和彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:28分
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 サンフランシスコ平和条約と北方領土:「千島列島」の放棄



 沖縄返還交渉で、東郷文彦と若泉敬を結びつけていたのは、「沖縄愛国心」と「醒めた現実主義」の二つのキーワードだったと述べた。この二つのキーワードを共有しながら沖縄返還交渉は推進され、成功したのだと思う。


 同様に、日ソ関係においてソ連時代、日本側の立場は、概ね、「北方領土愛国心」と「醒めた現実主義」に基づいて形成されていったと考える。

「北方領土愛国心」について私は、拙著『北方領土交渉秘録』の「エピローグ」にこう書いた。少し長いが、引用させていただく。ここに付け加える言葉は一つもない。



 「北方領土問題は、日本が太平洋戦争をいかにして戦い、いかにして敗戦をむかえたかという歴史に直結する、民族の心の痛みの問題である。具体的には、一九四五年の春から秋にかけて日本とソ連の間でおきた様々な不幸な出来事に、そのすべての根源を有する。


  四五年二月、ソ連は米英とヤルタ秘密協定を締結。その合意に従って、八月八日に突然対日戦争に参加し、満州、朝鮮北部、南サハリン、千島、そして北方四島にいたる地域を占拠した。


  日本は、ソ連のこの軍事行動に大きな衝撃を受けた。ソ連の参戦自体、四一年に合意し、当時有効であった日ソ中立条約に違反していたからである。


  また、この占領の過程で幾多の日本人が苦難の体験を強いられ、六十万にのぼる日本の軍人や民間人が抑留され、六万を上回る抑留者が帰らぬ人となったことも、国民の心の深い傷となった。


  千島列島の占拠も、大西洋憲章とカイロ宣言にうたわれた領土不拡大原則に(はい)()していたが、さらに、一八五五年の日露通好条約の締結以来一度も日本領であることを疑われたことのない北方領土の占領は、日本国民の心の衝撃に(とど)めを刺す形になった。


  かくて日本は、一九四五年夏以降の一連の事件によって、その他のアジア諸国などとは全く別の思いをもってソ連との戦争を終了した(189)」



 しかしながら、敗戦から日本は否も応もなく、「戦後の現実」に適合していかねばならなかった。日ソ関係及びソ連との領土交渉の基本は、「北方領土愛国心」と「戦後の現実」への適応のせめぎ合いの中から形成されていった。


 最初の試金石は、一九五一年のサンフランシスコ平和条約だった。条約草案をリードした米国は、すでに一九四五年二月のヤルタ協定でソ連に対し、対日戦争への参加の代償として「千島列島の引き渡し」への同意を表明していた。サンフランシスコ条約第二条の領土条項(c)で、日本は、放棄する領土の一つとして「千島列島」を明記することに同意させられたのである。


 この間の事情についていかなる心情をいだいたにせよ、会議に臨んだ日本代表団が、自らが署名する条約の条文について一定の解釈をしていたことは否めない。会合に臨んだ日本代表団の立場は、九月十一日の吉田茂総理の受諾演説の中に明示されている。北方領土問題について言えば、この演説で吉田全権は以下のように述べ、ソ連による、国後(くなしり)択捉(えとろふ)占拠に強く異議をとなえながらも、日本が放棄した「千島列島」の中に、「南千島」すなわち「国後・択捉」が入っていないとは発言していない。



 「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだというソ連全権の主張は、承服しかねます。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては帝政ロシアも何らの異議を挟まなかったのであります」



 他方、(はぼ)(まい)(しこ)(たん)については、以下のように述べ、これが「北海道の一部」として考慮されるべきもので、放棄した「千島列島」の一部を構成しないという意味あいを明確に述べた。ここで国後・択捉と歯舞・色丹との間に段差がついたことは否定しがたい。


「また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島および歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在していたためにソ連に占領されたままであります」



 以上の政府のサンフランシスコ条約の条文解釈は、代表団帰国後の国会審議でさらに明瞭なものとなる。その最も代表的な答弁は昭和二十六年十月十九日の衆議院平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において西村(くま)()条約局長が「(サンフランシスコ平和)条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております」と述べたものがある。「南千島」とは、国後・択捉両島をさす。


 第二次世界大戦が終わり冷戦がはじまった時から、米国と共に世界の超大国の一つとして東側世界をひきいていたソ連の力は最強となり、敗戦国日本の力は正に最低の時代であった。サンフランシスコ講和会議にソ連は当時外務次官だったグロムイコを送り込み、グロムイコは会議の前半これに出席し、友邦中国を招待していないことの非など演説でソ連の立場を述べるも、条約署名日には欠席し、署名権限を行使しなかったのである。


 その後外務省が長く主張してきたとおり、条約には、千島列島の範囲についての規定もないし、また、放棄したあとの帰属先も明記されていない。

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